本著は、キューバ出身でアメリカで学び教えているフスト・ゴンサレスが著した二巻ものの下巻です。
ゴンサレスは、キリスト教史上のある出来事の記録は「グローバルな視点の一部分」でなければならず、あるキリスト教徒が抱くキリスト教理解や表現は「万華鏡のような多様性の一部分」(p.456)と記しています。
訳者も、ゴンサレスの特徴のひとつは「歴史を過去のデータとしてではなく、現在を理解し、未来を考察するという目的のために行かされるべき物語だと考えていること」(p.462)と述べています。
これは、たとえばこういうことではないでしょうか。私が牧師をしていた教会からある信徒がバプテスト教会に転籍しました。その人は幼児の時に洗礼を受けていたのですが、その教会でもう一度洗礼を受け直したそうです。
これについて、私は、私の教会での洗礼が尊重されていないと感じましたが、本書には、16世紀の再洗礼派の信仰では「幼児洗礼は『教皇の忌まわしい行為』のなかで最悪のもの」(p.72)と見なされていた、とありました。これを読んで、幼児洗礼をこのように位置付けていた人々の歴史的系譜にある現在のバプテスト教会が上述のようなことをしたのはそんなに異常なことではなかったのだと思い直しました。
また、私が昔ある教会に赴任した時、その礼拝堂に十字架がないのを不思議に思い、十字架のない教会などありえない、そのうち十字架を設置しようと思いました。しかし、その前に、その教会から他の教会に転任することになり、実行できませんでした。
ところが、本書には、ピューリタンは「聖書的な信仰に立ち返ることによって教会を『清める(purify)』 必要を強調し」「たとえば十字架の使用や特定の司祭の式服などに反対した」(p.176)とあります。なるほどと思いました。
洗礼は大人になってからすべきか/幼児のときか、礼拝堂に十字架を置くべきか/否か。私たちは、どちらが正しいかという議論になりがちですが、歴史の中ではどちらもあったのです。
ところで、私はこの四十年間、キリスト教史の本を何冊か読んできました。学生のころは単位取得のためでしたが、牧師になってからは、趣味としてです。
日本語で読めるキリスト教史の本、二千年の歴史を一冊から数冊にまとめた出版は、そんなにたくさんあるものではありません。とくに、ひとりの著者で書き上げたものは限られています。
そのような著作が何年かに一度出るのが楽しみですが、あと何点読めることでしょうか。