マタイ27:25は新共同訳では「その血の責任は、我々と子孫にある」となっています。この訳だと、「イエスを拒否して十字架で殺した責任はユダヤ人に子々孫々受け継がれているとする考え」(p.21)を生み、現代まで続く「ユダヤ人迫害の根拠」(同)となってしまいます。
けれども、「マタイは終末が間近だと考えているので、これから何世代も先のことまで想定しているとは考えにくい」(p.20)と、この項の執筆者の須藤伊知郎さんは述べています。
聖書協会共同訳はここを「その血は、我々と我々の子らの上にかかってもいい」としています。マタイは、「我々と我々の子ら」の時代にあたる「紀元後70年の破局的な出来事」(p.21)(つまり、ローマ軍によるエルサレム占領と神殿の破壊のこと)で「イエスを殺害した血の呪いは現実化し、消えた」と考えていた可能性が高く、「その後もずっと呪いの場が残っている、というのはおかしなこと」、「今回の聖書協会共同訳で、ようやくこの致命的な誤訳が正された」(p.22)と須藤さんは指摘しています。
コリントの信徒への手紙一11:25。「食事の後、杯も同じようにして」(聖書協会共同訳)。「食事の後で、杯も同じようにして」(新共同訳)。
これは、ほとんど変わりませんが、この個所について、廣石望さんがこんなことを書いています。「イエスがまず「パンを取り」とあるのは、彼がホストを務める晩餐が始まる合図、続いて「食事〔=晩餐〕の後、杯も同じように」とあるのは後半の飲み会への移行のシグナルです」(p.29)。
ここに書かれていることは、目新しいことではないのかもしれませんが、わたしはこれまで意識していませんでした。これまで、牧師として、礼拝中に、何度も「さあ、ここから先は、飲み会です!」という合図を送ってきたとはまったく自覚していませんでした。
ユダの手紙7節。「不自然な肉の欲の満足を追い求めた」(新共同訳)。「異なる肉の欲を追い求めた」(聖書協会共同訳)。
新共同訳のような訳の背景には、ここでは同性との性交が問題とされている、という偏見があるそうです。しかし、辻学さんによれば、この個所の直訳である「「異なる肉を追い求める」という表現自体は、なんら同性愛を示唆するものではない」(p.120)ということで、「聖書協会共同訳の「異なる肉の欲を追い求めた」は、同性愛差別に根づいたこの誤訳を修正したという意味で大いに評価できる」(p.121)そうです。
そして、「「異なる肉」(ないし「別の肉」)とはおそらく、他の人間の肉体というほどの意味と考えられます・・・・この人々が非難されるのは、その姦淫のゆえでしょう」としています。
しかし、この個所を姦淫批判と解釈する背景のひとつには、性愛は一対一でなければならない、という固定観念もあるかもしれません。
ポリアモリーとはWikipediaによれば「関与する全てのパートナーの同意を得て、複数のパートナーとの間で親密な関係を持つこと」だそうです。このような愛を持つ人々がどのように差別されているのか、わたしは詳しく学んではいませんが、「LGBT」と呼ばれる人びとと同様に、この人びとへの理解が変わって行けば、この個所の解釈や訳も変わる可能性があるかもしれないと思いました。
かつて聖書は同性愛を禁じていると言われていましたが、反差別の歴史や聖書学によってその理解は変わってきました。聖書は同性愛は禁じていないが、モノアモリ―しか認めていないという解釈になるのか、あるいは、ポリアモリーを禁じていないという読み方が生れて来るのか、気になるところです。