619   「宗教や信仰の違いを乗り越えるにはどうしたらよいか」・・・「霊性の宗教―パウル・ティリッヒ晩年の思想」(石浜弘道、北樹出版、2010年)

 世界にはいくつもの宗教がありますが、残念ながら、それらの中には、自分たちだけが正しい、他は間違っている、という攻撃性を持っているものもあります。本書はそれを乗り越えようとする試みのひとつであると言えるでしょう。それは、同時に、宗教を問わず、さらには、信仰の有無を問わず、わたしたちひとりひとりが持っている「霊性」を描き出すことでもあるでしょう。

 

 「ティリッヒは、宗教の宿命であるかのごとき排他性とドグマ化そしてファンダメンタリズムを克服し、人類の救いという宗教の未来の大きな役割の可能性を各宗教・個人に内在する霊性復権に期待したのである」(p.163)。

 

 では、「霊性」とは何なのでしょうか。

 

 「ティリッヒ霊性を人間の宗教的な一能力・機能として考えただけではなく、人間適性の諸能力すべてを包括し、しかもそれらの活力となる生命の根源力と考えたのである」(p.20)。

 

 つまり、本著では、「霊性」は、宗教的なものに限られず、人間の心身の活動、さらには、その活力となる生命力そのもの、として述べられています。

 

 では、わたしたち人間の「霊性」と神(超越者、世界の根源)との関係はどのようなものでしょうか。以下、「神」を「世界の根源」と読み替えても大きな問題はないでしょう。

 

 「もし神の霊が人間の霊性に突入すれば、それは神の霊が人間の霊性の中に静かにとどまっていることを意味しない。それは神の霊が人間の霊性を追い出すことを意味する。「神の霊のinは、人間の霊性にとってはoutである」。しかしそれは、人間の霊性がそこから追い出されるのではなく、「有限な霊性が自己超越へと追い込まれる」ことである」(p.25)。

 

 これは、オカルトではなく、哲学的表現です。

 「神の霊によって私たちの霊性が信仰と愛へと姿を変え」(p.113)。

 

 つまり、信仰や愛は「霊性」の別の姿なのです。ならば、世界や人間、いのちの真理を求める哲学もそうでありましょう。

 

 「人間の霊性が不完全な分裂しがちな霊性であるのに対して、神の霊は・・・完全な霊であり、力と意味の究極的統一である・・・神の霊が人間に入ることによって神の霊を自己の内に「内なる言葉」として感じる・・・神の霊に導かれることにより、人間の不完全な霊性が昇華され高まり、人間霊性本来の力を覚醒し、最終的に神の霊と一つとなるのである。それは、神の霊が人間の霊性に乗り移るようなものである。この状態を彼はエクスタシーという」(p.142)。

 

 これも、超常現象の場合もあるかもしれませんが、気持ちや思考の中で、現象としては、ゆるやかにおだやかに神を求めたり感じたりし、なんとなく、神に委ねていくようになっていく場合の方が一般的なのではないでしょうか。

 

 では、イエスはどうなのでしょうか。ティリッヒは、伝統的なキリスト教信仰とは異なる道を歩いたかも知れませんが、キリスト教信仰を放棄したとは言っていないようです。

 

 「ティリッヒによれば、イエスの全生涯は神の霊に導かれて始まり、活動し、終わった・・・イエスバプテスマの瞬間に霊性によって捕らえられた」(p.84)。「霊の現臨は神の摂理により誰にでもいつでも起こりうることであった。ただイエスにおいてそれが決定的に、究極的に現れたがゆえに、それが彼をメシアとしたというのがティリッヒの解釈である」(p.86)。

 

 歴史的事実としては、あるいは、イエスの主観としては、あるいは、イエスの言動を記した福音書の主観としては、どうなのかはわかりませんが、ティリッヒは、福音書を読んで(むろん、歴史学としての聖書学の聖書もとりあえずある程度わきまえて)、イエスをこのように解釈したのでしょう。

 

 「神の霊がダイレクトに現臨し、全く捕らえられ、憑かれた状態にあることによりイエスはキリストとなった。つまり神が彼の中に存在し、神と一体となる。これがキリストである」(p.145)。

 

 しかし、これは、イエスにだけしか起こり得ないということではありません。以下の引用は、ティリッヒの考えか、石浜さんの考えか、わかりませんが、おそらくは、ティリッヒの考えに導かれればこうなるという石浜さんの考えでしょう。

 

 「私たちの内に宿る神の霊によって私たちも神の子であることが根拠づけられるのである。私たちは神の霊が宿る場所、神殿である」(p.146)。「ここにイエス親鸞の類似性がみられる。親鸞の場合、歴史上最も霊的能力を持ったものゆえに大拙はこれを超個霊の反射鏡、あるいは超個霊の個霊化と語る。イエスの場合、それは完全に神の霊に捕らえられたもの、神と一体となったものである」(p.148)。

 

 大拙とは鈴木大拙のことです。超個霊とは超越者の霊、個霊とは人間の霊のことでしょう。

 

 最後に、霊と諸宗教の関係はどうなるのでしょうか。

 

 「霊の現臨はキリスト教のみではなく、他の諸宗教もそれに対応して起こっているというのがティリッヒの主張である」(p.151)。

 

 「神の霊はキリスト教にかぎらず、すべての宗教共同体の中に働いている」(p.153)。

 

 「霊性が不十分な形で現れたのが個々の歴史的宗教であり、それが完全な形でしかし理念として現れるのが「霊性の宗教」である」(p.160)。

 

 「霊性の宗教」が「理念として現れる」というのは、「霊性の宗教」という具体的な総合宗教を考えているのではない、ということでしょう。世界の宗教のよいところを集めて完全な宗教形成を目指しても、それも「不完全な歴史的宗教」に留まります。

 

 各宗教が他宗教と、あるいは、宗教以外の「霊性」と対話をし、自己の欠点を確認したり、自己の聖典や歴史、宗教共同体、宗教思想などの、あらたな普遍的意味を発見したり、超越とのアクセスをより深めたりするプロセスの中で、到達できない、しかし、憧れるべき理念としてのみ、「霊性の宗教」は存在するのでしょう。

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