「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(使徒言行録1:9)
聖書に書かれていることを一言一句事実であると信じる人びとでも、わたしたちがロケットに乗って雲より高く高く昇って行けば天に行ける、と考える人はあまりいないのではなかろうか。
著者によれば、ティリッヒという神学者は、「神の真理を表現するために、『高さ』を『深さ』におきかえることを提案していた」(p.63)。
ティリッヒによれば、神は「天のかなたの他者ではなく」「われわれの存在そのものの根底」であり、「この無限にして尽きることのない深みと、すべての存在の根底の名前が神である」(p.29)。
地面から遠く離れたとても高いところに神が住む天がある、と信じなくもよいのは、20世紀の神学がもたらした救いのひとつかも知れない。
しかし、では、「存在そのものの根底」とは何なのか「無限無尽の深み」「すべての存在の根底」とは何なのか。
もしかしたら、イエスは、芽を出し大木へと成長していく種の秘めたる力で、それを言い表そうとしたのだろうか。
では、わたしたちは、それをどのように言い表したらよいのだろうか。たとえば、わたしたちはふだん道を歩く時は陥没や地雷を警戒することなく、むしろ、無意識のうちに道はつぎの一歩を支えてくれると信じているが、そのような信頼を、存在そのものの根底の経験に準えることはできないだろうか。
わたしたちは、意識、無意識を含めた日常の経験の中に、超自然現象ではなく、存在の根底や深みとつながっていることをこれまで以上に深く探索し、言い表す努力が必要ではないか。