誤読ノート590 「公平な分配と自己犠牲」
「ケノーシス: 大量消費時代と気候変動危機における祝福された生き方」(サリー・マクフェイグ、新教出版社、2020年)
370頁の大著だが、多くのことがらが記されているわけではない。地球環境を破壊する大量消費、それに伴う貧富の格差。人と動物と植物と地球の生命の危機。これに直面したわたしたちはどのように生きるべきかが、ケノーシス(己を小さくして、他に譲る)という言葉を鍵に、延々と述べられている。(主張には敬意を払うが、記述は冗長であり金太郎飴のように感じた。)
「消費主義という異教を、キリスト教の『ケノーシス』(自己を空しくすること)という自制の形態を詳しく研究することで批判したい」(p.16)。
消費主義は異教だという。つまり、キリスト教の主義とは違うという。ケノーシスは虚無に陥ることではなく、「自制の形態」だとされる。
具体的には、「自発的貧困」、「他者の必要への注意」(衣食住・安全といった基本的なものが欠如している他者への関心)、「普遍的な自己への成長」(自分の皮膚の内側に限定されない思いやりや共感を持つ)、といったプロセスが提起される。「自発的貧困」とは、ありあまる中から困窮者に施すことではなく、むしろ、公平に分配される社会を目指す行動とされる。
しかし、はたしてそのようなことをして意味があるのか。ほとんどの人はそんなことに同調しないのではなかろうか。
著者はあるカトリック労働者の言葉を引用する。「私たちは象にたかる蚊だ」。そして、著者は言う。「蚊にはそれなりの重要な役割がある。人は蚊を無視することができないのである」(p.138)。
ところで、ケノーシスという言葉の著者の引用には「自分を犠牲にする」という響きが伴う。自分はいらない、自分はどうでもよい、という含みがある。しかし、ほんとうにそうすべきであろうか。
大飢饉でパンが最後になってしまったのであれば、それは子どもに食べさせるだろう。しかし、地球上の生活必要物資は公平に分配すれば皆が生きられるのであって、誰かが犠牲になる必要など、ほんらいはない。
そこに十人がいてパンが十個あればひとつずつ分ければよい。問題は一人が九個を強奪・独占していることだ。
そこに三人がいて一時間歓談するならば皆ニ十分話し四十分聴けばよい(むろん、時計ではかる必要はない。独りが独占して話し続けず、皆が同じように話せる配慮があればよい)。
ケノーシスの前に公平な分配があるだろう。ただし、これだけ貧富の差がある場合、独占者はケノーシスという考えに触れたほうがよいだろうし、均等分を手にしている人も極度に困窮している人の前ではそこからわかちあうことも考えたほうがよいだろう。