昨日だったか、朝日の朝刊で、鷲田清一さんが尹東柱の「悲しむ者はさいわいである。だから、僕は永遠に悲しむのだろう」という言葉を紹介していた。前半は無論、マタイによる福音書でイエスに帰せられている有名句だ。
ぼくはぼくで、ルカによる福音書の、イエスの足を涙で濡らした、「罪の女」呼ばわりされていた女性のことを考えていた。物語中、イエスはこの人に「あなたは赦された」「救われた」と告げた。
そんなおり、この「悲しみのなかの真実」を読み終えた。若松さんの言う「真実」とマタイの言う「さいわい」とルカの言う「赦し」「救い」は、たがいに遠くないのかもしれない。
悲しみとさいわいが一見矛盾するように思えるように、苦界と浄土も正反対のことではないのか。しかし、若松さんはこう書いています。
「生命は滅びる。しかし、万物の「いのち」はけっして朽ちることがないのではないか、と全編を通じて読者に問いかけてきます」(p.8)。
生命の滅びと「いのち」の不朽が、石牟礼道子さんの「苦界浄土」の全編にあると。
「『苦界浄土』は、単なる告発の文学ではありません。むしろ、光源の文学です。水俣病の原因を作った企業あるいは地方行政、国家行政の欠落を照らし出すだけでなく、言葉を奪われた人々の心の奥にあるものも、白日のもとに導き出すのです」(p.9)。
「言葉を奪われた人々の心の奥にあるもの」を、若松さんは、「苦難を生きたものから発せられる「荘厳」の働き」とも呼んでいます。
「背負いきれないような苦難を背負ってもなお、世界は美しいと語る無名の人々の言葉――そして、それによって照らし出される、わたしたちが日頃見逃している世界の働き」(p.21)。
尹東柱が日本の特高に拷問を受けながら自分のなかに、そして、ルカが「罪の女」呼ばわりされていた女性の中に見たものも、きっと、これと似た風景ではなかろうか。