酷い目にあった。相手に非を認めさせたい。うまくいかせたくて仕方がないことがある。そういうときには、若松英輔さんを読む。
悲しいとき、苦しいときには、本が読めなくなる。そういうときには、若松英輔さんを読む。若松さんのエッセイを読む。小型の本、字や行間の大きい本を読む。
「少なくとも読むことにおいて、速くできるようになることは、ほとんど意味がありません」 (p.49)。
ぼくは、あるとき、自分は本を読んでいない、知識がない、思考が浅いことに気づき、本を読もうと思った。ぼーっとしていないで、テレビなど観ていないで、ネットなどしないで、本を読まなくてはならない、という強迫観念がぼくに住みついた。
でも、本当は早く多く読まなくていいのですね。安心しました。
「言葉は、多く読むことよりも、深く感じることの方に圧倒的な意味があるからです」(同)。
若松さんの言う読書は、知識を獲得することではなく、叡知に触れることだろう。「深く感じる」とは、この世界の深いところにあるもの、言葉の泉にあるコトバを垣間見ることだ。読書は花を見て花の神秘を思うことと変わらない。
スマホ眺めよりも、祈りや礼拝、黙想の方が、読書にはるかに近い。