556 「連行せずに、待機する。食べずに、見る」・・・「神を待ちのぞむ」(シモーヌ・ヴェイユ、今村純子訳、河出書房新社、2020年)

 訳者によれば、本書の原題を直訳すると、「神の待機」となる。これには、「神が(わたしたちを)待つ」という意味と、「(わたしたちが)神を待つ」意味がある。

 

 ぼくなりにこれを言い変えよう。「(わたしたちが)神を待つ」とは、「神が(わたしたち)を待つ」ことにわたしたちが気づいて、その神を見る、眼差しを向けること。

 

 ならば、「見る」とはどういうことか。「見つめるべき美を食べたのはイヴが最初である。果実を食べることでイヴが人間性を失ったのならば、その反対の態度である果実を食べずに見つめるということは、救うものであるはずである」(p.234)。

 

 食べるとは、相手を自分に取り込んでしまうこと、自分の一部にしてしまうこと、自分に従属させることである。神を自分のものにしてはならない。見るとは、自分の中に取り込んでしまう(自分が世界の中心になる=神になる)ことではなく、神を神としてそこに見ることである。

 

 「自らの偽りの神性を剝ぎ取ること・・・世界の中心を想像のうちに置くのをやめること、真の中心は世界の外にあるのを見極めること」(p.227)。

 

 神を待つとは、自分の中で神についての自分の思いを展開することを止め、自分の外にいる神をただ見ようとすることだ。

 そうすれば、神はやってくる。自分の中での自分の展開がとまったとき、神はやってくる。「神がやって来るのは、神がやって来るように希う人にのみである」(p.169)。

 

 しかし、「神がやって来るように希う」とは、自分の中での自分の思考ではなく、ただ、外の神に向かってひたすら眼差しを向けることであり、それが、待つことだ。

 「苦しみに対しても歓びに対しても、そのどちらかがやって来たときには、魂の中心を開いていなければならない」(p.193)。

 

 「魂の中心を開く」とは、魂の中心に自分がいない、ということである。ところで、「苦しみに対しても歓びに対しても」とある。

 

 「歓びも痛みもひとしく貴重な恩恵であり、そのどちらもそれぞれ・・・徹底的に味わい尽くさなければならない。喜びによって世界の美がわたしたちの魂のうちに入り込んでくる。痛みによって世界の美がわたしたちの身体のうちに入り込んでくる。歓びだけではわたしたちは神の友になることはできないであろう」(p.192)。

 

 「恩恵」も「世界の美」も神を背景にするものであり、それが入って来るとは、神が来ることである。歓びも痛みもわたしたちが連れ込むものでなく、やって来るものである。それとともに神も向こうからやって来る。わたしたちはそれを待つのだ。

 「わたしたちが〈父〉へと向けられるのは自らの眼差しだけである。〈父〉を探す必要はない。なさなければならないのは、眼差しの向きを変えることだけである。〈父〉がわたしたちを探す」(p.289)。

 

 〈父〉とは神である。神がわたしたちを探す。神がわたしたちを待つ。わたしたちは神に眼差しを向ける。わたしたちは神を待つ。

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