プロテスタント信仰が初期資本主義の展開の駆動力になった、とウェーバーは言う。しかし、利潤を追求することと神を信仰することは矛盾するのではないか。
以下は、本書を読んで、厳密にではなく、浅く、あるいは、間違って理解した上での、ぼくの勝手な展開である。
利潤と信仰の話に戻れば、こう考えられる。借りたお金を元手に事業をして利潤を得て、元金と利益を貸主に返済する。これは社会的には信用行為である。つまり、信用行為と利潤追求はリンクしているのである。そして、信仰とは信用、信頼である。かくして、信仰は利潤追求と、じつは、つながりうることがわかる。
信仰の目的は救いである。その人個人の救いは、ある意味、その人の私的利益である。信仰によって自分は救われようとする人と、信頼ある勤勉な仕事によって利潤を得ようとする人は、似ているのかも知れない。もっとも、勤勉な仕事は神の栄光のためであって、利潤は個人のぜいたくに用いられなかったことで、資本が蓄積した、とウェーバーは言っているようだ。
現在の資本主義は「神の栄光のために」とか「得た利潤を自分のために使わない」などということはまったくなく、ひたすら自分が儲けることに専念している。
神の栄光のためだったのに、なぜそうなったのか。それは、信仰がもともと神のためというよりは、自分の救いという利益のためだったからではないか。現代の資本主義は、信仰が内包していた私利追及に戻ったと。
「ピューリタン的な『天職』観は、財の分配の不平等を神の摂理として正当化する可能性があった。資本主義的生産体制が整備されると、資本家(企業家)と労働者に階層が分かれるようになるが、貧しい労働者の存在も、神の摂理に適っていると見ることもできる。そうした見方は最終的には、起業家による労働者の搾取を正当化することにも繋がる」(p.64)。