本書に出てくる聖書の登場人物にとって、社会は出来事の背景・原因というよりも、むしろ行先・結果なのです。
この本の十のエッセイは、タイトルからの予想を裏切って、じつは、社会学の方法を用いた聖書解釈ではありません。それぞれのエッセイでは、中心となる聖書の個所が一か所ずつ選ばれ、それについての著者の考えが述べられていますが、あくまで著者が社会学者であるということであって、聖書の社会学的研究ではありません。つまり、その時代の社会状況から聖書の記述を解説しているわけではありません。
出演者たちは物語において「生きて働く力」(p.8)によって「開いた社会」(同)へと入れられます。その力とは、不可能や絶望や硬直を抱えた人間を拒まない神の愛です。
聖書には、預言者やイエスやパウロの「教え」(というか思想というか)やイスラエルの歴史、初期のキリスト教会の歩みも記されていますが、本書では、人間が神にどのように出会い、あるいは、神の愛にどのように触れ、その結果、どう変わったか、という物語に焦点があてられています。
ある人が強盗に襲われて倒れていると敵が助けてくれた、というイエスのたとえ話を聞き、律法学者は自分もまったく「無理由・無根拠」(p.52)に神に愛されることに気づき、そこから無差別に人を愛する生き方に変わったのではないか、と著者は推測します。
シモンとアンデレはイエスに「私について来なさい」と呼ばれ「すぐ網を捨てて従った」とあります。「すぐ」という言葉は「選ぶ主体がこちらにはなく向こうにある」(p.181)ことを表していると著者は言います。つまり、愛と区別されないようなイエスの選びというか招きというべき「生きて働く力」によって、「魚を捕る漁師」という「閉じた社会」から「人間を捕る漁師」(人間を生かすはたらき)という「開いた社会」に入れられたのではないでしょうか。
ただし、こうした話は、人が神の愛によって「開いた社会」に入れられる、というだけでなく、神の愛が働く場がすでに「開いた社会」であるという意味もあるのではないでしょうか。律法学者とイエスが対話をする場面、イエスがシモンとアンデレを招く場面は、「神の愛」の磁場、神の力が生きて働く場であり、どうじに、すでに「開いた社会」でもあったのではないでしょうか。