アウグスティヌスは四世紀後半から五世紀前半の人である。本書の著者によれば、この時代には「個人の内面的な世界が生まれてきた」。そして、「ここには孤独な個人を内側から支える『大文字で書かれた単数形の神』が説かれるようになった」(p.20)。
それはキリスト教の神である。キリスト教は二世紀からすでにローマ帝国に広まり、「根無し草のような人たち」「商人」「解放奴隷出身の役人」「教育を受けた女性」のような「出身都市から切り離された孤独」(p.22)な人びとに受け入れられた、と言う。
そんな時代に、アウグスティヌスが「告白録」で記述したのは「非本来的自己から本来的自己への超越」(p.68)だ。「非本来的自己」とは神から切り離れている人間の姿、「本来的自己」とは神と結ばれていることだ。
神から切り離されている人間を、神は呼び求める。それに応じて、人間も神に呼びかける。ここに、呼応の関係ができる。
「人間の心は神に接近し、神のうちに安らぎを見いだす」(p.68)。
この「神のうちに」の「うちに」は、英語のinに近い前置詞である。神のうちに、神の中に、神のふところにあるとき、人間は本来的自己となる。
人間は本来神のうちにある。しかし、それを忘れてしまう。人間はそれを思い出し、神へ向かって歩む。これが、非本来的自己から本来的自己への道だ。そして、この道こそが、キリストの道だ。人間は心、あるいは、霊において、この道をたどる。著者はアウグスティヌスをこのように理解しているのだろう。
けれども、これは人間の一方的な努力ではない。この道は神の呼びかけに始まる。これを恩恵と言う。人間のなすことはこれへの応答である。
21世紀のわたしたちはどうだろう。わたしたちも不安だ。孤独だ。切り離されている。いや、つながっていることを忘れている。無視している。
しかし、上には空が、下には大地が広がっている。わたしたちは、空と大地のうちにいる。世界のふところにいる。自分よりはるかに大きなものに包まれている。ここに、わたしたちの本来の姿があるのではないか。