554 「企業はなぜ高学歴を採用するのか」・・・「解読 ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』」(橋本努、講談社選書メチエ、2019年)

 同じ机を十個作るとしよう。ひとりは、気が向いた時だけその仕事をする。脚を作っていたかと思うと、すぐにやめて、水を飲み、煙草を吸い、寝転がる。ようやく起き上がったと思うと、脚の製作の続きをするのではなく、天板にとりかかる。と思うと、これまた、すぐにやめて、誰かに話しかけ、延々と二時間話す。やっと、仕事を再開したかと思うと、今度は引き出しを作ると言い出す・・・

 

 もうひとりは、朝の8時から夕方の5時までを仕事時間と決める。10時から20分、正午から1時間、3時から20分休憩をとると決める。まず、足を机10個分作る。塗装をし、それが乾かしながら、今度は天板を10個分作る。塗装をし、それを乾かしながら、引き出しを机10個分作る。5時になったので仕事を終了する。次の朝、引き出しも乾いているのを確認し、昨日と同じ仕事時間、休憩時間で、今度は組み立ての作業に入る。

 初期資本主義が発展する一因には、後者のような合理性が必要であった。その合理性、規則正しく無駄のない時間の使い方は、それまでは、修道院の中にしかなかった。神にささげる時間の使い方だった。

 

しかし、それが世俗の労働に適応される。その際の勤勉さも、その結果の営利も、当初は神の心に従うためのもの、あるいは神に救われるためのものだった。勤勉さは神への従順という美徳であった。


 けれども、資本主義の展開につれて、神への従順はどこかに行ってしまい、合理的な労働だけが残る。現代社会において、企業は合理的な労働ができる従業員、しかも、残業まで合理的にこなせる者を求める。

 そういう人材かどうかの有力な判断基準は学歴である。中学、高校で、言われたことを合理的に覚えたり身につけたりできた生徒が偏差値の高い大学に入学するからである。

 学校の勉強においても、企業での労働においても、勤勉さと能率(合理性、規律性)は、宗教的価値が抜けた後も、美徳であり続けている。

 

 ・・・というようなことを、本書を読んで考えた。こう考えると、プロテスタンティズムの倫理は、資本を蓄積させただけでなく、従業員をサボらせないで働かせる一因に、あるいは、企業に役立つ従業員作りの一助になったのではなかろうかと思えてくる。

 

 けれども、学校教育は勤勉さ、合理性だけでなく、自由や非合理をも養う場であるべきではないか。高収入を得られる被雇用者になるには勤勉さや合理性が必要だが、人生や心をゆたかにするには、自由や非合理も必要だからだ。

 

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