吉満義彦、内村鑑三、井筒俊彦、池田晶子、須賀敦子、神谷美恵子、小林秀雄。
2011年以降、若松英輔さんによる評伝を何点か読んできました。最初のころは、まったく読めませんでした。読んでも読めなかったのです。
けれども、少しずつわかってきたことは、若松さんはこれらの人物の年表や事績評価を書いているのではなく、これらの人びとが見たもの、しかも、目に見えないものを、一緒に見ようとしているということです。
そして、読者は、若松さんが先人とともに見ようとしたことを、さらに、ともに見ようとしてきました。すべてを一緒に見ることができたわけではありませんが、十年間、見ることを続けることができたことだけは、たしかでしょう。
「難しい」という思いが以前よりも減っているのは、慣れてきたせいでしょうか。読者も書き手も。
読者は疲れた時、苦しい時に若松さんの本を探します。これらの本とは甘美な時を過ごせます。今回も、やはりそうでした。「難しい」と感じたところもありましたが、期待どおり、冬の布団の中にいるような幸福な読書でした。
表紙が美しいです。表紙の色が若松さんや越知保夫が見たものに通じているのではないでしょうか。
ここ数年、キリスト教が若松さんの中から浮き彫りになってきているように感じられます。ところで、かつてのキリスト者には、じつは、マルクスにも惹かれる人が少なくありませんでした。今でもそうです。若松さんはそのことも知っているのだと思います。
「彼の選びは、信仰かマルクス主義かの二者択一にあったのではない。自己探求か隣人かにあり、彼は後者を選んだ。彼にとって左翼体験は、政治的であるよりも、むしろ宗教的な出来事だったのである」(p.13)。
越知保夫は左翼運動に参加していた時期があるそうです。それは、自己ではなく隣人が生きることを求めるという意味で、信仰と区別されるものではなかったというのです。
「吉満と越知の場合・・・この現実世界において、いかに「霊」の働きを発見するか、それが二人の間に横たわる根本問題だった。彼らにとって、「霊」はいつも他者と共に存在する」(p.17)。
ここでの「他者」は先の引用での「隣人」と重なると考えても見当違いではないでしょう。信仰と矛盾しない革命、革命と矛盾しない信仰は存在するのです。
「彼が左翼運動に踏み込む実存的契機は、彼の視座が「隣人」から「民衆」へと開かれたところにあった。「隣人」への営みが、そのまま「民衆」へと繋がること、彼が求めたものは青春のときから最期まで、変わることがなかったのである。/「民衆」は越知にとって、単なる左翼的言語ではなく、吉満義彦から継承したカトリシズムを表彰する言葉だった。それは永遠の他者を意味した」(p.38)。
このくだりにうなずくキリスト者は、相対的には少数派であるかも知れませんが、けっして少なくないと思います。
「ここで確認したいのは、彼の内心に生起した「裏切りや争いや過誤」の内容ではない。むしろ、それらを包含しながら、彼を「一切の論議を超えた」別世界に導いた出来事、キリスト教の世界でいう「復活」体験である。/復活体験とは、超自然的治癒が起こることではない。むしろ、現実には何の変化が起こらなかったとしても、世界の存在が本来的に奇跡的であることを、深く認識することである」(p.61)。
ここで述べられている復活体験は、現実からの逃避などではなく、むしろ、「裏切りや争いや過誤」のある世の中にありながらもそれに飲み込まれることなく、むしろ、それを包含する世界を見ることでしょう。
「越知にとって「魂」とは、人間が他者へと開かれていく「窓」であり、超越者と出会う秘められた場所でもあった」(p.71)。
この「魂」をキリスト教の言う「霊」と置き換えても、何の矛盾も生じないでしょう。
「越知保夫にとって、読むとは、文字を頼りに「真理の国」へ赴くことであり、書くとは、そこで目撃した事実に、言葉という肉体を与えることだった」(p.123)。
これは、若松さんにとっての、越知保夫らを読むことであり、評伝を書くことでしょう。キリスト教で言えば、聖書を読むことは「神の国」を訪問することであり、聖書について書いたり語ったりすることは、「神の国」で触れた何かに言葉をもたらすことでしょう。
「死者の蘇り、許し、回心など形態は異なるが、人間には不可能だと思われる出来事が生起する。そこに現前するのは、奇跡の姿をとった超越者である」(p.175)。
聖書には、病気の癒しや嵐の鎮静など信じがたい奇跡が出てくるが、信じるべきことは、それが事実であることよりも、奇跡とは超越者、神の現れだということだ、と言うのです。病気の癒しは信じられない人も、たとえば、病人やその隣人が祈る姿に、そこに神がいると信じることはできるのではないでしょうか。
「私たちは死者と呼ばれる同伴者に、生きていたときと同じ「挨拶」をしなくてはならない。生者は、死者に向かって、あなたが逝ったときも、あなたは私の傍にいてくれたことが今でははっきりと分かる、と感謝の言葉を贈ることもできるのである」(p.192)。
ベッドのまわりにいた者が死にゆく者をひとりにさせなかったのではなく、死にゆく者が、逝くときも、逝ってからも、生き残った者とともにいつづけるのです。
「自然を発見するとは、自然が超自然に内包されていることの認識であり、現世を見極めるとは、来世の存在を知ること、また世界の存在に先行するのは「恩寵」だと言うのである。越知保夫の世界観の端的な表現だと考えてよい」(p.230)。
目に見える世界を包む目に見えない世界、それを、超自然、あるいは、来世、あるいは、恩寵と呼ぶのです。イエスがかつてそれを「神の国」と呼んだように。