「南無阿弥陀仏」とはどういう意味でしょうか。「南無」は「帰依」、「阿弥陀仏」は「無限なる者」だそうです。「南無阿弥陀仏」とは、つまり、「無限者に帰依(する/している)ということだそうです。
ここには「わたしは」という主語はありません。ただ「無限者への帰依」という事態、出来事があるだけです。あえて主語を求めれば、「無限者への帰依」そのものが主語なのかも知れません。
著者によれば、一遍は、「南無阿弥陀仏」と称える(と言っても、わたしが称えるというよりは、「南無阿弥陀仏」が「南無阿弥陀仏」と称える)とき、「往生」がある、と確信しています。
キリスト教で考えてみますと、アーメン(「然り」)という言葉がありますが、これは、人が神に対して「アーメン」と言っているようでありながら、神が人を「アーメン」と受容しているようであり、じつは、それは、区別できるようなものでもないのかも知れません。人からのものとも神からのものとも区別されない「アーメン」=「絶対肯定」が天蓋に響きわたっているのかも知れません。
著者は、「『南無阿弥陀仏』の六字の名号を口にするたびに、私は自分の心身が強く温かな情動に充たされるのを感じ、ときとして法要の同師を勤めながら泣き、しかるべき声にならないことすらあった・・・『然り、然り』という、私の存在を私自身が意識し想像し投企する範囲をはるかに超えて絶対的に肯定し包摂する言葉、それゆえに私に『自我』の鎧を脱ぎ捨てさせ、私の存在のすべてを他なる力に向けて開かせる、そんな言葉であっただろう。他力にゆだねられてあること、すなわち、大慈悲に刺し貫かれてあること・・・」(p.242)。
わたしには、このような「無限者への帰依」=「南無阿弥陀仏」が可能でしょうか。その前に、ふたつの点に注意しなければなりません。ひとつは、ファシズムの大会、集会なども、これに非常に良く似た装いをする点です。もうひとつは、このような「情動に充たされるのを感じ」(=著者の言葉)なくても、無限者への帰依の世界から除外されてはいない、という点です。
そのうえで、このような「情動に充たされる」経験を探るならば、ひとつは、芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」です。もうひとつは、三好達治の「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ」です。
キリスト教でいえば、「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(マルコ1:11)です。
静かに祈るとき、声も出さず、頭の中でも何も考えず、ただ、静けさに耳を傾けるとき、あるいは、讃美歌を歌いながら、じつは、空間に響く讃美歌の声そのものに身をゆだねるとき、わたしたちは、南無阿弥陀仏、往生、浄土、神の国、天国からそんなに遠くないのかも知れません。