1980年代の韓国の詩から、茨木のり子さんが選び、翻訳した詩集。
若松英輔さんの解説は「目に見えないもの」の観点から。斎藤真理子さんは茨木さんのこの詩集での翻訳の特色を説いている。
「ちかちかかがやく/オリオンが/見えたのだった/眼をつむっても はっきりと」
「りんごの花のそっと身じろぐ気配/聴こえたのだった/耳をふさいでも さだかに」
(姜恩喬、「眼」)
「私はいつも見えないものを求めて さすらってきた」(趙炳華、「無限」)
これらは、若松さんの解説に通じるが、以下の言葉もつながるように思う。
「この世に来て知らなくちゃならないのは/〈立ち去ること〉なんだ」
「別離のだんどりを習いつつ 生きよう/さようならの方法を学びつつ 生きよう/惜別の言葉を探りつつ 生きよう」(趙炳華、「別れる練習をしながら」)
目に見える世界から別れ、目に見えない世界へ旅立つ用意を、ぼくも習い、学び、探りつつある。
「彼がはじめてわたしのところへ来たとき/わたしはもう/彼のものでした」
「呼べば光りそのものとなる/絶対の彼/門を閉めても入ってくるのです」(李海仁、「恋」)。
この詩人はベネディクト会の修道者とのこと。茨木さんも、「詩の中で〈彼〉とか〈その人〉というのは、はっきりキリストを指していると思われる」とコメントしている。
「寒さが血を凍らせて/風が皮膚を抉ってゆく/しかしだ シベリヤの極寒も/血の流れを止めることはできず/皮膚を着る風の刃いくら深くたって/熱い内臓は取り出せないだろう/それは星がいくら寒さにふるえても/落っこちてこないのとおんなじだ」(黄明杰)
これも、目に見えないもの、つまり、人生の困難を乗り越え、死を乗り越せさせてくれる希望に通じる。
斎藤真理子さんは本書の詩をこのように評している。「一人ひとりの生活や想像力の羽ばたきの中に離陸の一瞬を見つける詩たちです。しかしその底には一はけ刷かれた「燃えさかる炭火のような山河」の記憶が消えることはない。そこが韓国の詩の底力ではないかと思うのです」。
茨木さん自身がそのような詩人だ。まさに最適の訳者だ。いや、翻訳は創作である。