たとえば、ある過去やある背景があると知ったとき、わたしはその人とどう接するだろうか。
それゆえに、その人を怖いと思ったり、悪人と見なしたり、蔑視したり、差別したりするだろうか。
それとも、その人の過去や背景の厳しさを理解し、あるいは、理解したふりをし、あるいは、理解しようとし、あるいは、理解しようとするふりをし、その理解、あるいは、押しつけがましい理解、あるいは、誤解に基づいて、その人を差別しないようにしたり、痛みをわかろうとしたり、あるいはそういうふりをしたりするだろうか。
はたまた、偏見や「理解」から自由になろうとして、ひたすらその人自身を見、その人自身に聞くだろうか。
「一体、愛に過去は必要だろうか」(p.347)。
過去ゆえの偏見は不要どころか除去しなければならないが、その人が語る過去物語に聞くことも不要なのだろうか。
亡くなった夫の過去を報告する弁護士の最後の言葉に、妻は最も心を揺さぶられた。
弁護士にも裁判官にも、職務上は求められないが、それでいて、いちばん大事なものは、こういう言葉ではなかろうか。