誤読ノート462 「重松版『放蕩息子のたとえ』」
結婚相手には14歳の少年がいた。手探りで父親になろうとする「私」。丸い笑顔をし、言葉もやわらかな少年。けれども、父は「息子」を「くん」づけなしでは呼ぶことができない。「息子」はけっして父を受け入れてはいない。
少年はかつていじめられていた。母親の再婚とともに、新しい町に引っ越してきた。けれども、そこは、七年前に中学二年生が同級生九人を毒殺した舞台だった。成人となったかつての犯人が釈放される。住民や教師は、14歳の少年を事件の犯人と見間違えてしまう。
あらたな事件が起こる。生と死の瀬戸際に立つ「私」と少年。
「父」とは何なのか。いつ「父」になるのか。
新約聖書でイエスは、非行息子の帰還を大喜びする父のたとえ話をした。「放蕩息子のたとえ」と呼ばれる。
「木曜日の子ども」は重松版「放蕩息子のたとえ」かもしれない。けれども、イエスのそれと比べて、何と苦しい、何と悲しい話なのか。