「たんぽぽ団地」(重松清、2015年、新潮社)
今日とは、4月21日、一日だけのことではなく、過去と未来のあらゆる日々が重なりあっているのではないでしょうか。
アルバムのある一頁のことではなく、その一頁を真ん中にした前後の厚み、過去と未来の映像の重なりあいのことではないでしょうか。
重松清さんは63年、ぼくは60年生まれ。この物語は、同年代の人びとには、たくさんの「そうだったなあ」「そうだよな」「そうかもな」をプレゼントしてくれることでしょう。
まず、この物語にも、重松さんはいつもと変わらず、巧みな描写をちりばめています。
「正面からこっちに歩いてこられると、ずうっと向き合っている格好になって、待ち受けるほうは間が持たない。いまさら気づかないふりをして横をむくわけにもいかないし」(p.71)。こういう経験はぼくらにもよくありますが、こんなに上手に書くことはできません。
「火花が出てきたら、ジジババ、ジジババ、って言っていると、どんどん火玉がふくらむからね」(p.209)。線香花火。憎たらしいほど巧みな表現です。
さて、物語は築五十年の郊外団地。「一人暮らしだと家族のおしゃべりを聞くこともないんだな」(p.61)とは七十代男性のこと。団地の現状を良く伝えています。
けれども、そこに小学生たちがやってくることで、物語が動きはじめます。重松さんがずっとテーマにしている「いじめ」も出てきます。「いじめに見えない、巧妙でずるい、いじめだ」(p.155)。「ハヤトの傲慢なイヤミに勝てるひと、誰かいないの?」(p.258)。
高齢者と小学生、おばあちゃん・おじいちゃんと孫、長老と幼子の出会い。これは伝統的な物語設定のひとつなのでしょう。
今度のこの重松作品でおもしろいのは、「物語の作り方」が主題になっている点です。「思いついたアイデアを、ここで二人でどんどん書いて、少しずつお話の形にしていって」(p.228)。「シナリオの形にはなっていない。シノプシスと呼べるほどのまとまりもないし、プロットですらない。場面やアイデアの断片がばらばらに並んでいるだけだ。長いものもあれば、ほんの一言のメモもある」(p.265)。
物語を少しずつ建築していく方法だけではありません。どのような世界観を物語にあたえるかも非常に大切です。「〈死んだ人と、また会える(ゆうれいやお化けではなく)〉。それくらいできなければ、「お話しの世界」の面目が立たない」(p.311)。
物語には死者が出て来なければならないのです。生者と死者が交わらなけれならないのです。「花が枯れて、綿毛にならないと、たんぽぽはどこにも飛んでいけないんだよ」「綿毛になって、風に乗って飛んでいって、遠くのどこかにたどり着いて、そこでまた、新しい花を咲かせるんだよね」(p.332)。重松清さんは死生観を築きつつある作家だったのです。一粒の麦もし死なずば。
生者と死者が交わるということは、現在と過去、そして未来が重なりあうことでもあります。「古びた三丁目団地の風景がさまざまに移り変わっていく。雪の降り積もった団地、春の花に彩られた団地、夕立のあとで大きな虹がかかった団地、中庭のケヤキの葉が美しく色づいた団地・・・・・一九六〇年代、七〇年代、八〇年代、九〇年代、ゼロ年代」(p.305)。「服装や髪形でわかった。いまの時代のひとたちだけではない・・・・・『ねえ、いままで三丁目団地に住んでいたひとが、みーんな、ここに集まってくれてるんじゃないの?』(p.358)。
中島みゆきを思い出します。「まわるまわるよ、時代はまわる、喜び悲しみくり返し
今日は別れた恋人たちも、生まれ変わって、めぐりあうよ」(「時代」)。
池澤夏樹も思い出します。「西洋人は世界を一枚の油絵のように見ている。遠近法を駆使しても実はぺらっとキャンパス一枚、奥行きはないんだ。アボリジニは無数の時間を重ねて見ている。祖先から子孫までぜんぶが見えている。重なっている」(「砂浜に坐り込んだ船」、p.189)。
すてきな付録を三点。
一。「負けることやあきらめることと、終わることとは違うからね、絶対に」(p.230)。
二。「エンドマークは、もちろん、〈The End〉ではなく、〈Good-Bye〉」(p.364)。God be with you.
三。「けれど、秀彦さんは違った。親しくなるにつれて、なぜか一人だけ「チコちゃん」と呼び始めた。「だって、そのほうがかわいいじゃないか」――十歳年上の、いささか太り過ぎの秀彦さんを恋愛の対象として考えるようになったのは、その言葉を聞いた頃だったかもしれない」。これは、男性に恋する女性の心理を重松さんがうまく描いたのでしょうか。それとも、ただの願望でしょうか。