「結局のところ、聖書的正義とは、喜びに満ちた正義であって冷厳な正義ではありません。物事を修復し、癒し、正常化するような、喜びあふれる正義なのです」(p.109)。
ぼくの場合、正義は恨みに満ち、冷酷で、相手との関係を破壊する、喜びのないものであったと反省させられます。やられた相手にやりかえすのではなく、やったりやられたりしない関係を回復し、ともに喜ぶ正義を切望しなければならないのです。
「イエスは、悪の暴力の究極の犠牲者となりました。しかしその犠牲になって、イエスは自分を虐げる人たちに報復して、罪の支配を継続させたりはしませんでした・・・憎しみに対して憎しみで対抗しませんでした」(p.106)。
相手の暴力を相手に知ってもらう場に憎しみを持ち込んではなりません。憎しみはまさに克服すべき暴力だからです。憎しみではなく、良き関係を回復させることにこそ、相手が持っていた憎しみと暴力への勝利があるのです。
「イエスの死は暴力的なものでしたが、神は彼を死者のうちからよみがえらせ、暴力行使がもたらす壊滅的な死ですらも神の力にかなわないことを示しました。イエスの復活は、悪が敗北したこと、新しい人間存在の形が始まったことを示す、客観的な証拠なのです」(同)。
セクシャルマイノリティ差別も、暴力であり、人を死者としてしまいます。社会的にも殺しますし、身体の生命をも奪います。壊滅的な暴力です。しかし、神の力はこの暴力に勝ります。イエスの復活がその証です。イエスは、差別によらない新しい人間関係を示しました。
その道のりは容易ではありません。しかし、ヘブライの預言者たちはすでに正義の道を歩んでいました。「日常の出来事では悪が明らかに幅をきかせているにもかかわらず、預言者は神の正義と首尾一貫性を疑っていない」(p.39)。
険しい闘いにはまさにこの「神の正義と首尾一貫性」という希望と信頼が必要なのです。
「現在は悪と不正義にまみれているかもしれません。しかし『希望の神』はいつの時代も、虐げられている人々の味方であり、歴史を最終的な救いの方向へと、不思議な力で導いているのです」(p.47)。
「人間は神の代理者として、この世における神のアイコンのようなものとして、創造されたのです。神の愛による支配を地上で目に見えるようにする手段が人間です。神は正義の神ですから、神の姿を帯びるのもまた、正義を身に帯びなければなりません」(p.42)。
イエスの復活とともに、わたしたちも、神の似姿=正義、愛へと復活することが求められているのではないでしょうか。
では、どうすればよいのでしょうか。世界のさまざまな不正義について無関心にならない、それを不正義と認識し、正義を慕う、正義を求める最前線にいる人びとを忘れない、憎しみではなく愛によって正義を語る、相手を屈服させるのではなく良き関係の回復を目指して語る、不正義の現状、正義の希求、聖書における神の正義を学び続ける・・・
そして、「あなたに欠けているものが一つある」というイエスの声に聴き、応えることではないでしょうか。