聖書に現われる「共同性」と「終末意識」は、既存の政治への批判となる。「共同性」は「一人支配」を、「終末意識」は現政権の絶対化を批判する(p.2)。イエスは「『政治的なるもの』の本質それ自体を相対化している」(p.28)。
けれども、距離によって、キリスト教は政治を批判もすれば、正当化や迎合もしてしまう。
たとえば、エウセビウスにおいては、「宇宙における唯一の神を奉じることが、世界におけるただ一人の王に人びとが従うべきことの理由となる」(p.48)。距離が近すぎる。いや、くっついている。
けれども、アウグスティヌスは違う。彼によれば、神が人間に支配するようにと託した対象は動植物だけであるから、人間は他の人間を支配してはならない。「正義の完全な達成がない以上、およそ人間が作り上げる政治共同体というものは『大きな強盗団』ということになろう」「アウグスティヌスは、道徳性の衣装を政治共同体から剥ぎ取った」(p.71)。
しかし、アウグスティヌスが伸ばしたキリスト教と政治との距離を、今度はトマスが縮める。トマスは「恩寵は自然を排除しないで、これを完成する」という命題によって、支配者や支配体制(も自然に属する・・・)も神によって創造されたよいもの、という思想を促してしまう。つまり、アウグスティヌスにおいては、神の善の前で、政治を含む人間のなすことの悪が明らかにされたが、トマスにおいては、政治もまた神によって「良し」とされていることになる。
アウグスティヌスによれば、「人が人を支配するという事態はエゴイズムに由来しており、その根底には人間の罪があった」(p.126)が、トマスは「奴隷制的な支配服従関係はともかく、政治的なそれの中に肯定的な性格を認めていこうとする」(p.127)と著者は論じる。
このような距離の伸び縮みは、歴史において、形を変えて繰り返される。ルター、カルヴァン、経験主義、バルト、ポストバルト、ピューリタリズム、ニーバー、アメリカ福音派の展開におけるそれも、本書では、単純に図式化されることなく、個々の事例に即して丁寧に論じられている。