雨降る土曜の夜でした。「お届けしたいものがあります。今からお訪ねします」。こんな時間に何だろうと思っていたら、「さきほどまで若松さんの講演会があって、そこで買ってきました」と言って渡してくださったのが、この本でした。
大事なことは、思いがけない時にやって来る。その通りでした。
「遭うためにもっとも大切なのは待つことだ。待つことにこそ、意味がある。どんなに会いたいと思う人であっても、無理をして会わない方がよい。意図的に会おうとすると、逢うことができなくなる。さらにいえば、会いたいと思う強い気持ちが、めぐり逢うことから私たちを遠ざけることもある」(p.123)。
喪失に近いふたつの病みごとを抱えていたぼくにとっては、この言葉は予期せぬ、しかし、時に適った慰めでした。
会うと逢うの違い。若松さんは、定義によってではなく、「深いところに丁寧に折りたたまれている裂地(きれじ)をゆっくりと広げるように」(p.125)言葉をつづることで、それを言い表しています。ぼくは、まさに、あの週末に、この本と「めぐり逢った」のでした。
じつは、若松さんの本を贈ったのは、ぼくが先でした。おつれあいが天国に帰る準備をしているときでした。「悲しみの秘儀」。同じくエッセイ集。
あまりにも直接的過ぎると恐れましたが、彼はていねいに読んでくださり、深く共感してくださいました。そして、今度は、ぼくの悲しみを知ってか知らずか、この「言葉の羅針盤」をご恵贈くださったのです。
若松さんには井上洋治神父とのめぐり逢いがありました。井上神父は遠藤周作さんの師とも言われています。彼らは、西洋から輸入されたキリスト教を、日本の地に土着化させようとしました。日本人になじむものにしようとしたのです。遠藤の小説群はその実績に他なりません。
若松さんの今回のエッセイ集にもそれに通じるものを感じました。もっとも、遠藤周作の小説のようにキリスト教そのものを素材にしているわけではありません。けれども、本著の二十余の随想では、文学、心理学、神学の専門用語が使われることなく、いやほとんど言及されることさえなく、それでいて、それらが慕い求めた「目に見えないなにか」が、やさしく・・・平易なだけでなく、慈しみ深く・・・言い表されているのです。
目に見えないなにか。それは、目に見えないのですから、ぼくたちの感覚を超越しているのですが、「なにか」ですから、たしかにそこにあり、触れることのできるものではないでしょうか。
「言葉」「羅針盤」「悲しみ」「秘儀」。これらの言葉も、目に見えないなにか、あるいは、それへの通路を、本の頁になじませようとしてきた足跡だと思うのです。