396 「礼拝は会衆だけでなく世界全体に愛を伝える神の働き」  「現代における宣教と礼拝」(デーヴィス著、岸本羊一訳、日本基督教団出版局、1968年)

 教会の礼拝は、内向き、つまり、すでに教会員になった人にだけ向けられていないでしょうか。けれども、本書は、礼拝とは、「教会と神」の間ではなく、「この世と神」との間のことがらだと言います。あるいは、礼拝は、神が教会に来ている人のみならず、世界全体に対してなしている「宣教」だと言います。そして、教会は神の「宣教に参与する人びとの団体である」(p.221)と言います。

 では、神がなす「宣教」とは何でしょうか。「宣教とは、たんにみ言をのべ伝えることではなくて、その中に交わり(コイノニア)の生活のあかしをも含んでいるものである」(p.217)。言い換えれば、宣教は、平和、統合、和解、正義、共同体をこの世界にもたらすことを含みます。つまり、この世界に、(神が人に注ぎ、人が神に返し、また、人と人との間でわかちあう)「愛」を回復させることを大きな要素とするのです。

 そして、このような神の宣教行為が、礼拝とその諸要素に内包されていることを、聖書や20世紀の神学文献を引用しながら、本書は、くどいくらいに丁寧に説き明かしています。

 「バプテスマは、われわれをキリストの従順、すなわち彼の宣教的使命(ミッション)のなかに導き入れるものであるが、聖餐は、この神への従順、したがって神の宣教への献身を更新するものである」(p.140)。

 つまり、洗礼(バプテスマ)を受けることは、神が世界に愛をもたらす宣教に対してキリストが従ったように、わたしたちもキリストに倣い神の愛の宣教に従事する生き方を始めることを意味します。聖餐は、その更新だと言うのです。

 このように、バプテスマと聖餐という礼拝の二つの要素は、本著では、宣教という観点から意味を再確認されます。主の祈り、讃美、感謝の祈り、とりなしの祈り、信仰告白、罪の告白、赦し、聖書朗読、説教、献金、報告、祝祷も、この世に神の愛を伝えるという視点から意味づけされます。

 では、わたしたちはどうしたらよいでしょうか。本書が出てから半世紀が経ちますが、礼拝が内向きである一方、世界は平和、正義、愛を必要とする状況は変わりません。

 牧師は、会衆だけでなくむしろ世界に愛をもたらす神の働きをあらためて意識して礼拝に臨むべきでしょう。また、礼拝の宣教的な性格を、説教、聖書勉強会、修養会、役員会などをとおして、会衆と再確認していくべきでしょう。

 まことにうれしいことに、わたしたちはすでに神さまから無条件に罪を赦され、生かされ、愛されているのですから、キリスト者として生きることは、救われたり、天国を約束されたりするための条件ではなく、むしろ、人を愛し、世の中に平和と正義を訴えることを通して、神の愛に応答しまた参加することだという信仰がいまあらためて求められています。

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