詩とは何でしょうか。この本は、数多くの詩人や詩をとりあげながら、地下水をさがすかのように、この問いを掘り下げていきます。
「自分のなかに言葉になり得ない、しかし、見過ごすことができない何かが宿るとき人は、内なる詩人をよみがえらせる」(p.11)。
では、この「何か」とは、どのようなものなのでしょうか。
「詩とは、世にあるさまざまな人、物、出来事、概念、そして象徴を扉にしながら、その奥にあるものにふれようとする営みである、ということもできる」(p.17)。
「扉の奥にあるもの」とは、どのようなものでしょうか。
それは、「実在」とも「神秘」とも「『彼方の世界』にあるもの」とも言われますが、「彼方の世界」とははるか遠くのことではなく「深み」のことなのです(p.23)。「世にあるさまざまな人、物、出来事、概念、象徴」の根源、源泉と言ってもよいでしょう。これらをあらしめているものです。一輪の花を芽吹かせるものです。
八木「重吉にとって詩を詠むとは、『神』の声を聞き、『神』に呼びかけることでした」(p.88)。
高村光太郎にとっては「詩とは五感を超えて存在する『気』を捉えようとすること」(p.135)だと言います。
そして、リルケにとっては「詩を書くとは、永遠の世界と交わることであり、そこからコトバを受け取ることでした。詩は、目に見えないものから託されたものだったのです」(p.152)。
聖書を読み、そこから何かを受け取り、それを友とわかちあう仕事をしているぼくにとって、若松さんのこの本は、根本的なことを教えてくれます。
「詩を世に送り出すためには、心に詩の空間を準備しなくてはならない。自らの想念をひとたび鎮め、訪れるものにその場所を明け渡さなくてはならない」(p.155)。
宗教者のみならず、小説家、音楽家、美術家、芸術家、すべての表現者が聞くべき言葉ではないでしょうか。いや、SNSなどを通して、言葉が容易に発信できる時代においては、すべての人にあてはまることではないでしょうか。ぼくたちの言葉の呼吸はあまりも浅すぎないでしょうか。言葉を発するときは、つねに詩を詠むように深呼吸することができたら、世界はどれほど美しくなることでしょうか。
けれども、ぼくたちに詩を詠むことができるのでしょうか。
「人は誰も、自らの詩情を、心情を詠うに十分なコトバを宿しています。それを内なる宇宙に探せというのです。誰かのように、誰かよりも上手く、あるいは評価を求める言葉ではなく、無言の『声』として立ち上がってくる詩情を静謐のうちに心で受けとめよ、そうリルケは若者に語りかけるのです」(p.161)。
ぼくたちのなかには、バラを咲かす泉からの声が、すでに宿っているのです。ぼくたちがなすべきことは、それを静かに聴くことです。聴こえるまで、耳を澄ませて待つことです。
何も難しいことではありません。まずは、条件反射のような浅く薄っぺらい言葉をすぐに発するのを止め、もっと美しい言葉を自分の心臓の中にじっくり探してみることから、ではないでしょうか。