「遠野物語」の名を知ったのは、むかし、ぼくが愛読する作家、井上ひさしさんの「新釈・遠野物語」を通してです。井上さんの「新釈」は「遠野物語」への、いわばオマージュ(※オマージュ(仏: hommage)は、芸術や文学においては、尊敬する作家や作品に影響を受けて、似たような作品を創作する事=Wikipedia)ですが、ぼくは、当時オリジナルを手に取ることはありませんでした。けれども、「遠野物語」という語感の響きは、まだ見ぬけれども、なつかしいものとして、ぼくの心にずっと残りつづけました。
それから、三十年以上が経ち、この夏、ぼくは、遠野を訪ねることができました。友人が遠野からさほど離れていない花巻で働き始めたので、では、この際一度、と思い立ったのです。花巻も井上ひさし、そして賢治の読者にとっては聞きなれた地名です。
もうひとつの偶然は、やはり、この夏、小野寺功さんという人の書いた「大地の文学」という本を読んだのですが、小野寺さんも花巻の土沢の出身で、この本には、賢治や「遠野物語」が引かれていたのです。
ぼくは、最近、木や花や水や光や影や猫や詩や音楽や沈黙の奥底に、それらをそこに泉のように湧きあがらせる、世界の根源を感じつつあるのですが、「大地の文学」での引用のされ方を見ると、「遠野物語」には、まさに、そのような感覚が満ち溢れているような予感がしました。
その予感がどの程度あたっているのかは、これから「遠野物語」そのものを手に取ってみないとわかりませんが、その準備として「柳田国男『遠野物語』 2014年6月 (100分 de 名著)」を読んだ限り、遠野物語には世界の根源への感覚が「満ち溢れている」とまでは行かなくても、ぼくたちが今生きている社会よりはずっと強く見られると思います。
「東北では・・・心の病を抱えていたり、知的障害があったりする人なども、普通の人がもつことのできない力で神や仏とつながります」(p.55)。「神や祖先への畏敬の気持ちや、生活のなかで不思議なものを感じ取る力を尊重し、心を病んだ人たちとの共生を実現してきた、『遠野物語』にある世界は、私たちの現代社会が見失っていたったものを見つめるための、鏡にもなるのではないでしょうか」(p.60)。
「『遠野物語』を読んでいると、あちらこちらに死の風景があるので、死ぬというのはそんなに怖いことではないのかもしれないとさえ思えてきます」(p.70)。
「いま被災地では、亡くなった家族や友人の姿を見た、という話をたくさん耳にします。心の復興の過程で、『遠野物語』にあるような「魂の行方」の問題が、百年前の遠い過去の出来事にはならず、現在進行形で蘇ってきているのではないでしょうか。興味本位の怪談としてではなく、まさに家や地域の「目前の出来事」「現在の事実」として、しきりに語られているのです」(p.85)。
ぼくはキリスト教徒ですが、こういうものを持ち出すと、「多神教だ」「異教だ」とおしかりを受けるかも知れません。けれども、世界のさまざまな物や事の奥底にそれをそこに生じさせる唯一の源泉(キリスト教では創造神)を見るからこそ、死者や祖先、動物や神々との交わりがあるのではないでしょうか。偶像と見られるものは、じつは、世界と自分の源泉が窓から漏らす光かもしれないのです。