「牧師の読み解く般若心経」(大和昌平、YOBEL、2015年)
自覚的な仏教徒で専門的な勉強もなさった方が、ここ何年か蒲田教会の礼拝や神学書の読書会にお越しくださり、ぼくの拙いお話に耳を傾けてくださっておられます。その方が、とても良いですよとご紹介くださったので、読んでみました。
著者は牧師でもあり、佛教大学で仏教を専門的に学ばれたこともある神学教授です。仏教とキリスト教の大きな相違点を明らかにしつつも、キリスト教の優位性を訴えるのではなく、共通点を見いだそうとする姿勢に好感が持てました。
ぼくなどにはなかなか使いこなせるようになりそうもない仏教用語を噛み砕いて、また、筋道を立てて記しておられ、非常に勉強になりました。
けれども、キリスト教についての考え方では、ぼくとの違いもいくつか見受けられました。
たとえば、「キリスト教にとっては聖書こそが唯一の基準であり、規範となります」(p.58)。ぼくが倫理的なことがらを考えるときは、聖書だけではなく、民主主義や人権の思想、歴史、人文社会自然科学、人々の声なども土台となります。聖書は、基準、規範というよりは、神のいのちの物語だと思います。聖書が禁じているからしない、命じているからする、というのではなく、聖書の話を通して、神の愛や希望や信頼を汲み取るのです。
「新たに仏典がまとめられる度に経典の量は拡大していくことになります。閉じていないところが、霊感によって閉じられている聖書との違いなのです」(p.62)。聖書の物語、神の物語自体は、閉じられているどころか、いまなお展開しているのではないでしょうか。聖書記者につづくような経験は、文字にされなくても、あるいは、正典に加えられなくても、二千年間続いてきたと思います。礼拝の説教、ひとりひとりの信仰、いや、ひとりひとりの生そのものは、むしろ、聖書が閉じることなく、開き続けている姿だと考えます。
「自己の確信に固く立つのが、宗教というものです。誰にとっとも、自己の信仰や信心は絶対的です。宗教的な確信は絶対的なものなのです。それだけに、恐ろしく独善的になりやすいという特徴があります」(p.279)。「独善的になりやすい」のではなく「自己の確信に固く立つ」ことや「自己の信仰や信心を絶対的なものとする」ことは、独善そのものです。宗教は、確信ではなく、むしろ、仏教がいうところの「空」「無我」、聖書のいう「自分を無にする」でありましょう。新約聖書のフィリピ2:6に「 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」とあるとおりです。
もっとも、著者も「キリストに従うために自己を失う者は、逆に自己を得る・・・これは、まさに自己を空ぜられていく生き方そのもの」(p.280)とつづけて述べておられるので、安心しました。そして、まさにこのあたりが、仏教とキリスト教の交差点などではないでしょうか。
とてもすばらしい表現にも出会いました。「「救い」とは、自分から離反した子どもの心を、その親がいのちをかけて取り戻すということです。子どもにとっては、親を殺した果てにようやく我に返って、親の子である自分を取り戻すということです」(p.87)。
とても懐かしい言葉も見つけました。「あのくたら さんみゃく さんぼだい(阿耨多羅三藐三菩提)」。インドの山奥でダイバ・ダッタのもとで修業したレインボーマンの変身の言葉です。「無上の正しい覚り」「この上は考えられない、つまりは最高の覚り」(p.241)だそうです。