「シェイクスピア名言集」(小田島雄志、1985年、岩波ジュニア新書)
井上ひさしさんには「天保十二年のシェイクスピア」という初期の戯曲がある。これにはシェイクスピア37作品すべてが何らかの形で参照されている。たとえば、主人公の名前が「三世次(みよじ)」で、これは「リチャード三世」から。
井上さんが旅立って四年半。「井上ひさしの劇ことば」が出版された。小田島さんの著作だ。シェイクスピア学者であり訳者であり、シェイクスピアの劇を知り尽くした小田島さんによる、井上ひさしの戯作史。とても納得的。
それもそうだ。井上さんはシェイクスピアも当然読み込んでいて、シェイクスピアと井上ひさし両方に精通している小田島さんの批評なのだから。
ぼくは井上芝居は全部読んでいる。けれども、井上芝居の新作はもはや出ない。ならば、今度はシェイクスピアを全部読もうと思った。これは、じつは、井上さんの新作を読むに等しいことではなかろうか。でも、その前に準備体操をしておこう。若くないのだから。
ということで、この本を手にした。
シェイクスピア劇からの名台詞。その文脈。そして、そのセリフをネタに小田島さんがご自身やご家族やお友達の私生活を軽妙に暴露する。
そこには、もちろん、シェイクスピア論が散りばめられている。
「シェイクスピアはよく、人間の外面と内面の食いちがいを、セリフにしたり劇のテーマにしたりする」(p.88)。ああ、井上さんも得意技だったなあ。
「シェイクスピア劇というものも、ごった煮のように無秩序・無統制のところがおもしろい」(p.147)。ああ、井上さんも初期はそうだったなあ。
「ぼくがシェイクスピアから学んだことの大事な一つは、人間は欠点があるにもかかわらず、いや、欠点があるからこそ、愛すべき存在だ、ということ」(p.211)。ああ、ひさしさんにも「人間合格」という太宰治の評伝劇があったなあ。
ところで、絵画、音楽、彫刻、詩、文学は、見えるものの根源にある見えないもの、天上のもの、つまりは、神を指し示そうとしていると言われることがあるが、シェイクスピアと井上さんの場合は、徹底的に人間の姿を描こうとしている。彼らは神は見えていなかったのか。
けれども、人間が「愛すべき存在」であるならば、人間の奥底には、愛に値するもの、あるいは、愛そのものが横たわっているのかもしれない。