「霊性の哲学」(若松英輔、KADOKAWA/角川学芸出版、2015年)
人から蔑ろ(ないがしろ)にされたと感じたら、ぼくは激しく怒る。これは良くない、プライドだけが高く、がまんが効かない短気な気質のせいだと思ってきた。けれども、この本の最終章で、ハンセン病だった詩人谺雄二に献げられた章を読み、もう一つの、しかも根底の理由を発見した。
ぼくの中にはぼく自身に拠らない尊厳、侵してはならない大切なものがあるから、ぼくは侮辱されてはならないのだ。谺はそれを「いのち」と呼んだ。若松が一章を献げた山崎弁栄は「小霊」あるいは「火花」と呼んだ。阿弥陀如来が「大霊」であり、ぼくたちのなかには「大霊」から生まれた「小霊」が宿っている。あるいは、「永恒不滅の大生命」という「炎」から飛び散る「火花」が、ぼくたちだ。
ぼくたちのいのちは、神、絶対者なる「大生命」に由来する。だから、殺してはならないし、殺されてもならない。神は侵すことができない。それを聖と言う。ぼくたちには神の聖と同質の聖がある。だから蔑ろにしてはならない。ぼくの激昂は、深奥では、聖なるものへの侵犯に向けられているのではなかったか。谺を教えてくれた若松に感謝する。
見えるものの根源には見えないものがある。ぼくたちの根源には見えない絶対者がいる。見えないが、たしかに存在する。いや、それこそが存在そのものだと若松は伝える。
ぼくはキリスト者として牧師として聖書を読んできた。
イエスは野の花や空の鳥や畑の麦の奥底に神の働きを見たのだった。それを神の国と呼んだのだった。
イエスのまわりにいた人々は、イエスの奥底に神の働きを見たのだった。それをキリストと呼んだのだった。
若松はカトリックで、四章を献げられた吉満義彦もそうだが、全体としてはとくにキリスト教の本ではなく、柳宗悦、鈴木大拙、井筒俊彦らにも献げられているこの本によって、聖書という井戸からゆたかな霊をくみ上げることができそうだ。これにも感謝する。