252  「いのちは神の異名だった」

霊性の哲学」(若松英輔KADOKAWA/角川学芸出版、2015年)

 人から蔑ろ(ないがしろ)にされたと感じたら、ぼくは激しく怒る。これは良くない、プライドだけが高く、がまんが効かない短気な気質のせいだと思ってきた。けれども、この本の最終章で、ハンセン病だった詩人谺雄二に献げられた章を読み、もう一つの、しかも根底の理由を発見した。

 ぼくの中にはぼく自身に拠らない尊厳、侵してはならない大切なものがあるから、ぼくは侮辱されてはならないのだ。谺はそれを「いのち」と呼んだ。若松が一章を献げた山崎弁栄は「小霊」あるいは「火花」と呼んだ。阿弥陀如来が「大霊」であり、ぼくたちのなかには「大霊」から生まれた「小霊」が宿っている。あるいは、「永恒不滅の大生命」という「炎」から飛び散る「火花」が、ぼくたちだ。

 ぼくたちのいのちは、神、絶対者なる「大生命」に由来する。だから、殺してはならないし、殺されてもならない。神は侵すことができない。それを聖と言う。ぼくたちには神の聖と同質の聖がある。だから蔑ろにしてはならない。ぼくの激昂は、深奥では、聖なるものへの侵犯に向けられているのではなかったか。谺を教えてくれた若松に感謝する。

 見えるものの根源には見えないものがある。ぼくたちの根源には見えない絶対者がいる。見えないが、たしかに存在する。いや、それこそが存在そのものだと若松は伝える。

 ぼくはキリスト者として牧師として聖書を読んできた。

エスは野の花や空の鳥や畑の麦の奥底に神の働きを見たのだった。それを神の国と呼んだのだった。

 イエスのまわりにいた人々は、イエスの奥底に神の働きを見たのだった。それをキリストと呼んだのだった。

 若松はカトリックで、四章を献げられた吉満義彦もそうだが、全体としてはとくにキリスト教の本ではなく、柳宗悦鈴木大拙井筒俊彦らにも献げられているこの本によって、聖書という井戸からゆたかな霊をくみ上げることができそうだ。これにも感謝する。

 http://www.amazon.co.jp/%E9%9C%8A%E6%80%A7%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E8%8B%A5%E6%9D%BE-%E8%8B%B1%E8%BC%94/dp/4047035556/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1429863602&sr=8-1&keywords=%E9%9C%8A%E6%80%A7%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6