285  「目に見えない世界の根源を眺められる日が来る予感」

「白い鹿」(版画:ヨゼフ・ドミヤン、詩:押田成人、日本キリスト教団出版局、2015年)

はじめて読んだとき、その版画も、墨で書かれた詩も、理解不可能でした。意味あるもの、はっきりしたものとして、頭に入って来ないのです。

できることは、ただページをめくるだけ。すぐに、疲れ果て、ベッドに倒れ込み、ぼくは、灰色の猫と、一時間は眠り込んだことでしょうか。

目を覚ましても、頭は動かず、体は重く、字を追えません。先に読んだ友人が「打ちのめされた、何も言えない」と述べていたのはこのことか、と思い出しました。

詩には「未生以前のしるし」とあります。なるほど。言葉でも絵でも表せないもの。いや表現以前の未分化の世界から垣間出てきた版画や墨詩を、ぼくが頭で分別できるはすがないのです。

詩人は歌います。「みずから思うことを、遠く離れ、誘う息吹と共に、在ることをのみ、たのしむ」。

巻末の散文で詩人はこう記しています。「私は、遠いまなざし、全体の中に一点を捉えるまなざし、を勧めます。遠い山を見つめずに、遠い山の方に目をやりながら、この落葉の一葉を捉えてみて下さい」。

「見つめずに」ただ「目をやる」遠い山を背景にした版画や詩は、じっと見つめて、把握しようとしてはならなかったのです。半眼、遠いまなざしを遣るべきだったのです。

「いつの日か、目に見ゆるもの、見えざるもの、存在そのものでないすべての存在の全体が、自らへの執着から脱落するとき、あらゆる実(じつ)が、未生のながめそのものがあらわれるでしょう」

この本の版画と墨詩には、たしかに、「未生のながめ」の予感が満ちています。
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