573 「倚りかからないために」
「清冽 詩人茨木のり子の肖像」(後藤正治、中公文庫、2014年)
「もはや/できあいの思想には倚りかかりたくない・・・倚りかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ」
十年以上前でしょうか。「倚りかからず」と題された茨木のり子のこの詩に出会ったのは。
それ以降、茨木の詩や散文、そして、茨木について書かれたものをいくつか読んできました。
本書は、ほぼ時系列に沿って、茨木の人生、詩作、家族、交友をまとめたものです。茨木や他の詩人の作品も織り交ぜられています。
「詩人・茨木のり子を貫いてあるモチーフが<自身と日本社会>であるとすれば、谷川俊太郎のそれは<自身と宇宙>であるといっていいのかもしれない」(p.134)。
「茨木が『品行方正なる婦人』であったとすれば、金子は『天衣無縫の無頼派』であろうか」(p.179)。
石垣りんとの話も出てきて、本書は、侵略戦争敗戦後の日本の文学史の一断面とも言えるかもしれません。いや、尹東柱も出てきますから、「日本の」と言い切ることもできないでしょう。
「戦争は一人の詩人を生み落とした」(p.94)とあります。「倚りかからず」も「わたしが一番きれいだったとき/まわりの人達がたくさん死んだ/工場で 海で 名もない島で」も「戦争責任を問われて/その人は言った/ そういう言葉のアヤについて/ 文学方面はあまり研究していないので/ お答えできかねます/思わず笑いが込みあげて/どす黒い笑い吐血のように/噴きあげては 止り また噴きあげる」も、たしかにそれを証ししています。
しかし、茨木は他人を非難したのではありません。「茨木の詩は独白であるよりもダイアローグであることを特徴とした。問いのベクトルはまず自身に向けられ、それが結果として読者に<わがことのように>伝播する作用を果たす。詩人・茨木のり子の根幹をなすモチーフが、<私を生きる>、裏を返せば<あなた自身であれ>である・・・」(p.128)。
「自身を律し、慎み、志を持続してなすべきことを果たさんとする――。それが、茨木のり子の全詩と生涯の主題であり、伝播してくるメッセージである」(p.284)。
「倚りかからず」はこう続きます。「もはや/できあいの思想には倚りかかりたくない/もはや/できあいの宗教には倚りかかりたくない・・・」
ぼくは、キリスト者ですが、できあいの信仰には倚りかかりたくないと思います。むしろ、旧約聖書、イエス、新約聖書を通して、永遠の創造者にして同行者をつねにあらたに追いかけたいと願っています。追いついたと思ったときは、すでにできあいになり、すでに倚りかかっているのではないでしょうか。