243  「頂上からふもとへのいくつもの道 あるいは キリスト教以上にキリスト教的、仏教以上に仏教的、イスラム以上にイスラム」

井筒俊彦 叡智の哲学」(若松英輔、2011年、慶応義塾大学出版会)
 
 ぼくはキリスト教徒だ。この本はキリスト教の本というわけではない。けれども、キリスト教のエッセンスが、ここには満ちていた。キリスト教信仰の多様な側面を経験してきたことが、本書の旅の大きな助けになった。

 叡智とは、世界の根源のことであり、唯一という意味と、統一、全体、一致という意味で、一なる存在のことであり、世界に存在する者に存在を与えるまことの存在のことだ。哲学とは、この叡智に触れたことを表現することを通して、読者もその経験へと誘い、魂を救済しようする営みのことだ。哲学をする者が叡智に触れるのではなく、叡智に触れられたことに気づき、伝えようとするものが、哲学者なのだ。

 ぼくがこの本から学んだことは、キリスト教が唯一絶対なのではなく、キリスト教も絶対者に触れ、絶対者を示そうとしているということだ。

 キリスト教信仰には、神は世界と人間の創造主であるとか、神はロゴス(言・ことば)であるとか、神には父・子・聖霊の三つの位格があるとか、神は世界を愛しているとか、神はイエスという人格において肉体を我が身に受けた(受肉)とかいうようなことがあるが、本書では、それが、より深められ、より普遍に述べられている。

 キリスト教信仰の中核には、人間が神に到達したのではなく、神が人間に自分を啓示したということがある。本著でも、叡智の主権、叡智の主導が大前提になっていて、すべてはここから展開し、ここに支えらえている。

 井筒俊彦は、それをギリシャ哲学、ロシア文学イスラム学者、カトリック空海などとの対話から導き出したのだ。その足跡を、著者の若松英輔さんが案内、いや、同行してくださる。

 世界の様々な宗教は山の頂上へのさまざまなルートに例えられることがある。この本はそうは言わない。むしろ、頂上にある叡智が、裾野のさまざまな現象、言葉、文化、自然などを通してご自身を示していることを、読者に経験させてくれる。

 父を通して、イエスを通して、聖霊を通して。キリスト教を通して、イスラムを通して、仏教を通して。文学を通して、哲学を通して、芸術を通して。すべては、叡智の愛なのだ。

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