「もしも学校に行けたら アフガニスタンの少女・マリアムの物語」(後藤健二、2009年、汐文社)
後藤さんは少女のために本気で祈ります。「神さま、どうか彼女たちを導いてください」(p.82)。「指導してください」ではなく「ともに歩んでください」とぼくには聞こえます。
後藤さんは重ねて祈ります。「(神さま、どうぞ彼女を導いてあげてください!) わたしは、そう願って眼を閉じました」(p.122)。
後藤さんはキリスト教徒です。けれども、米軍の誤爆で殺された少女の兄の墓では、イスラム教のやり方で祈りを捧げました。
彼は取材で訪問する人びとを、自分の「対象」や「材料」にするのではなく、むしろ、その人びとを「主人公」として、自分は聴き手となります。少女の兄の死の様子を少女の母から聴き、何も言えず、ただ黙り込みます。長い沈黙のあと、かろうじて、「アイム ソーリー」とだけ言うのです。
後藤さんは、考えます。「彼は、死ぬ瞬間何を思ったのだろう? 家族のことだろうか? 仕事のことだろうか? それとも戦争への恨みや疑問だろうか?」(p.53)。
後藤さんは、考え続けます。「わたしは前の日に考えたことを、また思い出しました。(彼は、死ぬ瞬間何を思ったのだろう? 家族のことだろうか? 仕事のことだろうか? それとも戦争への恨みや疑問だろうか?)と。いくら考えても、やはり答えは見つかりませんでした」(p.56)。
答えは見つからなくても、問いは二度繰り返されます。読者も二度、問いかけられるのです。後藤さんの伝えたいことは、まさに、この問いでありましょう。
巻末で後藤さんは言います。「『対テロ戦争』『テロとの戦い』とわたしたちがまるで記号のように使う言葉の裏側で、こんなにたくさんの人たちの生活がズタズタに破壊されていることを、知らないでいたのです」(p.132)。
2001~2年の取材に基づいて、2009年の出版。この本は、2014〜15年の後藤さん自身やご家族、世界の諸国の政権を占っていたようにも思えます。
けれども、占いではありません。この本が伝えていることは、後藤さんが取材で訪問した人びとと同じ人生を生きたということ、そして、後藤さんは今も生き続け、眼を開いて人びとの生活を見続け、眼を閉じて(神さま、どうか、この人びとを、わたしたちを導いてください)と祈りつづけていることに他なりません。