304  「もう一度、「真面目」に生きてみよう。目に見えない、もっとも大切なものを仰いで生きてみよう」

内村鑑三『代表的日本人』――NHK 100分 de 名著 2016年1月」(若松英輔NHK出版、2016年)

内村鑑三にとって「代表的日本人」とは、自分を越えた大いなる存在とつながって生きた人びとのことでした。この存在は、天、超越、永遠なるもの、神、叡智とも呼ばれます。NHKの番組に添って書かれた若松英輔さんのこのムックは、内村著の「代表的日本人」をこの観点から説き明かしたものです。

「代表的日本人」の主格はそのような人びとよりも「人間を超えた力の主体である天」(p.21)であると若松さんは指摘していますが、このムックについても同じことが言えるでしょう。内村はエマソンの「代表的人間像」に倣い「代表的人間」を記したということですが、人間を挙げながらそこに働く叡智を描く方法は、若松さんにも受け継がれ、思い返せば、「生きる哲学」「霊性の哲学」のように章ごとに異なる人名を冠した著作にも、あるいは、「井筒俊彦――叡智の哲学」「吉満義彦――詩と天使の形而上学」「イエス伝」のように一人の名を書名にしたものにも、永遠なるものを知るじつに多くの人びとの生が取り上げられ、それらが絨毯の糸のように折り重なり、その厚みの中に叡智が予感されたのでした。

若松さんはカトリックだということですが、このムックでもそうであるように、キリスト教だけに真実があるのではない、叡智は他にも宿っている、と重ねて説いておられます。それがキリスト教の妨げになると思う人がいるかも知れませんが、そんなことはないでしょう。

キリスト教会は信徒減少もあってそのメッセージをどのように伝えるか苦悩していますが、若松さんの著作は、キリスト教の枠を超えることで、かえって、キリスト教にも含まれるもっとも大切なメッセージを浮き彫りにしてくれました。大事なことは、キリスト教や教えをキリスト教の枠組みで教えることではなく、世界には目には見えないがたしかに存在するものがあり、その中にこそ、もっとも大切なことがある、という感覚をわかちあっていくことだったのです。キリスト教は永遠なるものを知る一素材であり、一手段ではありますが、永遠なるものそのものではありません。両者を混同してはならないのです。

このムックのページをめくっていくと、こうしたことを土台とした、非常に勇気づけられる言葉と巡りあえます。

「炭の火は、放っておくと見えなくなる、しかし、息を吹きかけると、再び赤く燃え上がります」(p.43)。ぼくという人間はまさに今にも消え入りそうな炭火ですが、永遠なるものが吹きかけてくれる息によって、ふたたび炎となることができるのです。

「働くことは、生活を成り立たせるだけでなく、生きる意味を感じ、それを日々新たにする営みにほかならないと内村はいうのです」(p.65)。ぼくは家族を支えるための術をたしかなものにしたいとつねに焦ってきましたが、大事なことは、天がぼくをどのような道で他者に仕えさせようとしているかということであり、その上で、どんな仕事をするのか考えることなのでした。

「人間は、肉体と心だけでなく、霊によって超越――神や天ともつながれた存在であり、学校はその三つに触れ合う場所でなくてはならない、と内村は考えていました」(p.70)。ならば、ぼくが高校の聖書の時間になすべきことは、まさに、生徒たちが超越と触れ合うための案内だったのです。

「人間の生涯は、自分が何をしたかなどということはわからないまま過ぎていくものだ、それでよいではないか、だからこそすばらしい――と、内村は言っているのです」(p.105)。多くの人に理解されたり、良きものをわかちあったりすることができなくても、たった一人に「ああ、蒲田駅なら、こう行けばつきますよ」と伝え、「ありがとう」と言われる、たった一回の出来事のために、数十年のぼくの人生があるなら、そういうぜいたくも悪くないと思いました。

「真面目」というのは、品行方正ということではなく、永遠なるものを無視せず、有限を虚無に過ごさないことでありましょう。

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