「叡智の詩学 小林秀雄と井筒俊彦」(若松英輔、慶應大学出版会、2015年)
It rains. ふつうは「雨が降る」と訳すが、英文では主語はrainではない。「それが雨を降らせる」。それとは何か。神が雨を降らせる。いや、自動詞ならば、神が雨する、神が雨となる、とすべきか。
神が雨になる、とは、雨という現象のなかに神が自らを現している、雨において神はわたしたちに自らを予感させている、ということではなかろうか。雨だけではない、花も、雪も、川も、空も、歌も、言葉も、絵も、音もそうだ。
若松さんはカトリックの信者だという。けれども、この本では、表題の小林、井筒だけでなく、鈴木大拙、芭蕉といった、カトリックではない人々の霊性、つまり、この世界の根源への憧れあるいは接触が述べられている。また、セザンヌ、リルケ、トルストイ、ユング、ベルクソン、ランボーといった、神学者でない人びとの霊性も現れる。
どの宗教もどの霊性も別々の道を通りながら結局は同じ頂上を目指している、というのではない。大地は、さまざまな花を咲かせ、しかもその奥底に自らを顕わしているのだ。
これらの霊性は、皆、それぞれの花を凝視し、大地に触れたのだ。
「『意識と本質』は、まるで霊性の宴のようだ。読者は饗宴へ招かれし者。招待客は、集まった古今東西の巨人たちに驚き、主催者がそこに捧げた労苦を忘れがちだ」(p.128)。
若松さんが井筒の主著を見事に言い表している。
この本にも、また、同じ驚嘆がささげられることだろう。