「吉満義彦 詩と天使の形而上学」(若松英輔、2014年、岩波書店)
見える世界だけでなく、見えない世界が実在する。パラレルワールドのことではない。見える世界の深奥にあり、これを存在させる、見えない根源のことである。これこそが、永遠であり、実在、ほんとうに存在するものである。神、絶対者とも呼ばれる。天使や死者も見えず、見えない世界と見える世界を橋渡しする。
見えないとは、無色透明ということではなかろう。むしろ、見える、聞こえる、触れる、読む、といった人間の感覚ではつかめない、ということであろう。
けれども、それは断絶ではない。あくまで人間の感覚に留まるが、見えるものに留まらない予感、見えないもの予感はある。詩、歌、文学などにはその可能性がある。詩人は見えない死者、天使のすぐとなりにいる。神学は詩であることが望まれる。
ぼくは聖書の言葉にひかれたが、心理状態は、日常の出来事の好悪によって一喜一憂するにとどまっていた。これは、「本当は」神を信じていないからではないか。「本当の」意味では救われていないのではないか。
精神医学の知識は心理状態を物質現象として分析していた。ある種の宗教的高揚もこの物質現象に還元できるものなのに、神の霊の作用と僭称しているように思えた。
自分には救われたという感覚、神の愛に触れられているという感じがなくても、神の側がそうしていると聖書が語っている、その言葉、つまり、神の言葉を支えにすればよい、いや、支えてくれている。こうして、ぼくは一喜一憂にとらわれながらも、信仰生活を続けてきた。
けれども、この本の誤読感想を書きながら思い浮かべるには、ぼくは、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」というイエスの詩や、「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」というパウロのあたらしい歌をとおして、神を感じ、触れ、震えたのだった。
すると、ぼくが目の前の人びとになすべきことは、これらの詩の解説ではなく、感じ、触れたときの、空が一挙に晴れ渡った快感を感染させることであり、神が自分にタッチしている響きを感じる、その助けとなる場を設けることであろう。
それを礼拝と呼ぼう。ぼく自身が、吉満義彦さんと若松英輔さんから、そこに招き入れられていたのだった。