570 「韓国を目的語ではなく主語に」
「隣の国のことばですもの 茨木のり子と韓国」(金智英、筑摩書房、2020年)
本書の副題にあるように、ぼく個人にとっても、茨木のり子と韓国は密接につながっています。
「自分の感受性ぐらい/自分で守れ/ばかものよ」。ぼくは高校二年生の生徒たちに、歌でも文学でもコミックでもいいから好きな言葉を一つ発表するように言い、鄭さんはこれを選び、ぼくはこの言葉とこれを選んだ彼女に感動しました。ぼくに茨木のり子を教えてくれたのは在日の彼女でした。
この本の著者は、二十代で韓国から来日し、日本語学校、日本の大学、日本の大学院で学び、本書の骨格となる博士論文を書き、ぼくはこの本を通して彼女から茨木のり子を深く味わわせていただきました。
「従来、茨木のり子と言えば、『社会批判』の詩人として捉えられることが多かったが、そのレッテルの裏には『隣人愛』という主調音が潜んでいたのである」(p.18)。
「茨木のり子が作品を通して言い続けてきたのは、いかなる権力にもコントロールされず、自分自身を生きることであり、同じように他者をも自己を生きる存在として理解することが社会を生き抜いていくうえで何よりも大事である、ということであった」(p.19)。
旧約聖書の預言者たち、そして、イエスもそうでした。この人びとは権力者や民の不正を批判しました。それは、不正に苦しめられていた人びとを愛し隣人となろうとしたからでした。茨木は聖書を読んだかもしれませんが自覚的なキリスト者ではありませんでした。金智英さんはどうなのでしょうか。彼女も茨木と預言者たちを重ねているのでしょうか。
茨木は夫を亡くし深い悲しみに浸りますが、そこから起き上がるとき、そして、ひとりになる自由を得たとき、「それまでの人生とは違って、心の底に秘めていた韓国に対する関心を、自由の実現の第一歩として浮かび上がらせた」(p.161)と著者は評します。それまで秘めていた韓国への関心が、ハングル学習という形で、彼女を自由へと導くのです。韓国が彼女を解放するのです。
茨木が韓国を理解したというよりは、韓国が茨木を受け入れたのでしょう。敗戦直前の日本で獄死し、のちに韓国で広く読まれるようになった尹東柱を高く評価した日本詩人として、茨木は韓国でも知られるようになったと言います。尹を読む日本人詩人を韓国の民が受け入れたということではないでしょうか。
「わたしが一番きれいだったとき/街々はがらがら崩れていって/とんでもないところから/青空なんかが見えたりした」
この詩では、日本の戦争責任、朝鮮の人びとになした犯罪の懺悔は、直接には書かれていません。しかし、茨木があの侵略戦争の賛美者ではないことは、この詩以外の茨木の言葉からも、韓国の民に伝わったのではないでしょうか。
韓国の作家たちは、この詩を、光州事件や通貨危機における自分たちの経験と重ね、受容していると著者は言います。
日本人は、茨木のごとく、韓国を目的語から主語にする詩を書くべきではないでしょうか。