「生きる哲学」(若松英輔、2014年、文春文庫)
朝の川面ににじむ楕円の陽光。その傍らに休む水鳥。
道端のお地蔵さんに手をあわせる老婆。子を失くしたおかあさん。
これらは、みな、なぜ、うつくしい。
空の高いところ、大地のふところ、いくえもの空気の最古層には、これらに美をわかちあたえるお方がおられるからだ。これらはそのお方の愛おしさを映し出していると言ってもよい。
美の主は、いのち、叡智、実在、大地、神、存在の深み、永遠、超越者と呼ばれる。
「哲学」とは、人間がこれと「つながりを持つ状態を指す」(p.266)。
「生きる」とは、このつながり、この状態が経験されることだ。
この本の14の章では、エッセイや詩、造形、小説、染色、食べ物、花摘み、悲しみを通して、これをまさに「生きる」人びとが出てくる。14人だけではない。各章にはさらに多くの叡智証人が、良質の絨毯を織るかのように重なって登場する。
けれども、それは、この人びとの独占物ではない。彼らや著者の若松さんによって、ぼくたちもそこに招待されている。いや、叡智ご自身が招いてくれている。この「哲学」は「市井に生きる無名の人びとに宿っている」(p.266)と若松さんも述べている。うれしいことだ。
とは言っても、叡智、実在、存在の深み、永遠、超越者。はたして、そんな難しそうなものと、ぼくたちがつながりを持てるのだろうか。
いや、空の鳥、野の花を見てみよう。その背後に、その源に、これを生み、生かしている、目に見えない力が感じられないだろうか。想像できないだろうか。そうだとすれば、すでに向うから呼びかけられ、手を差し伸べられているに違いない。
ある神父さまが、人生の意味はこの世界で成功することではなく、超越者を仰ぎ見ることだ、と書いておられた。よかった。ならば、ぼくの人生も意味を持てる。
本著は、キリスト教書ではないが、教会が本来なすべきことを代わりになしている。教会の礼拝では説教なるものがなされるが、本著は最良の説教集のひとつに数えられる。しかも、キリスト教用語に頼ることがない。