339  「不意打ちによって非常識な心に飛躍すれば詩が読めるかも」 「詩を読む人のために」(三好達治、岩波文庫、1991年)

 ランボーリルケの詩は読むのがとても難しい、とても苦労します。それは、意味を考えるからだ、意味を考えないでそのまま受け止めるとよい、という助言もいただきましたが、脳は既知の情報に照らし合わせて何とか意味をつかもうとしますから、意味が分からない言葉は脳から拒絶され、そのまま受け止めることさえも不可能なのです。

 そもそも、なぜ詩を読もうとしたのでしょうか。詩は、目に見えないもの、永遠なるもの、根源なるもの、死者の声を伝えている、と聞いたからです。ぼくもそれを味わいたいと思いましたが、上述の通り、その目的は、入口から挫折してしまいました。

 それでも、努力すればなんとかなるかもしれない、と思い、この本を手にしてみたのです。

 この本も詩心のない者にはあまり理解できないようにも感じましたが、それでも、いくらか得たものがあります。

 「文芸作品というものは、我々の常識でもって読むより外はありません」(p.63)。

 やはりそうでしたか。それなら安心です。いや、ぼくに常識とかありましたっけ。常識のない人には詩は無理なのでしょうか。それに、詩の言葉って、ぼくたちの常識を覆すものではないのでしょうか。それを常識でもって読んでしまうと、読んだことにならないのではないでしょうか。

 大木惇夫さんの「小曲」「想ひ/かすかに/とらへしは、風に/流るる/蜻蛉なり、霧に/ただよふ/落葉なり、影と/けはひを/われ歌ふ」(p.144)。

 なるほど。では、読者は詩人がとらえた「影」と「けはひ」を感じられると良いのでしょう。

 「萩原さんの、実は単純な抒情詩に、何がなし、思想的蔭翳の深いものが感ぜられる」(p.165)。

 朔太郎はそうかも知れませんが、ランボーリルケも、単純な抒情詩ではないのです。

 「よにもさびしい私の人格が、
  おほきな声で見知らぬ友をよんで居る、
  わたしの卑屈な不思議な人格が、
  鴉のやうなみすぼらしい様子をして、
  人気のない冬枯れの椅子の片隅にふるへて居る」(p.168)。

 詩とは、まさに、「この見知らぬ友」のことなのかもしれませんね。

 「俗ではありません。俗に入って俗を出でる・・・・・一種危きに遊ぶという意識も、勿論詩人の意識の一部分に働いていることが察せられます」(p.174)。

 これは堀口大学の「夕ぐれの時はよい時」への評です。詩の世界は、「一種危き」世界と心得て読むと良いのでしょうか。

 「解析的な、いわば穿鑿的なやり方はともすると説明的に堕するおそれがあります。説明はうたになりません。うたは散文を怖れます。詩における解析は、数学の場合とちがいます。かならずしも精密と周到と、石橋を叩いて渡るような間違いのなさとを要しません。省略と飛躍を要します。快適なはずみを要します。機智を輸します。それらによって、精神が特異な情態にめざめることを要します。詩はつねに、何ものか、意想外なものの不意打ちなしには成り立ちません」(p.176)。

 そうでしょう。だから、「我々の常識」などでは詩は読めないのです。「省略」と「飛躍」「快適なはずみ」「機智」への感受性が必要なのです。

 常識の枠で意味にこだわっては詩は読めないと思いますが、そのまま受け入れることもできず、「意想外なものの不意打ち」によって「精神が特異な情態にめざめる」ことが必要なのです。詩を詠むときも、読むときも、この「不意打ち」を待つことから始まるのですね。

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