「『レ・ミゼラブル』百六景」(鹿島茂、2012年、文春文庫)
映画や舞台を観た人、子ども向けに書き直されたものを読んだ人はいても、全巻を読破した人は、あまりいないことでしょう。鹿島さんも、原書で通読した仏文学者は、「大菩薩峠」を読了した国文学者より少なかろう、と言っています。
それだけの大作ということでしょう。だから、このようなガイドの需要と供給があるのでしょう。本書は、作品の舞台でもあり、執筆時代でもある19世紀の画家たちによる挿絵を一枚ずつ収めるページが二百葉、本全体の半分近くを占めます。
そして、鹿島さんによる各景の解説。政治や社会や経済、文化、風俗、生活状況、あるいは、原作者ユゴーの思想や私生活から説かれています。
「レ・ミゼラブル」をユゴーは「社会のくず」のような否定的な意味合いで用いていたが、次第に「社会の犠牲者」として理解され、さらには、理想社会建設の原動力とみなされていくプロセスを著者は見い出しています。
著者のユニークな点は他にもあります。たとえば、ジャン・ヴァルジャンは、単に徳と愛のある人物であるだけではなく、多数の敵を打ち破り、縄に縛られても脱出し、拷問にも耐え、高い壁もひとっ跳びのスーパー・ヒーローであり、その後の時代に生み出されそう呼ばれる映画やテレビのキャラクターの原型であると言います。たしかに、マリウスを助け出す道筋も、活劇のそれですね。
また、鹿島さんは、ユゴーは、作品の途中からコゼットには並みの愛しか示さなくなるのに、エポニーヌの純情、献身への思いれが強くなっていると指摘しています。エポニーヌ・ファンが少なくないゆえんです。
ガヴロッシュ少年は、ユゴーにとって、民衆の象徴であり、貧困と抑圧の中でも魂の純粋を失わない「子ども」でもあるが、法と教育によって救い出さなければならない対象でもあり、ここに、民衆は指導しなければならない存在とみなすユゴーの限界もあるという指摘も興味深いです。
あるいは、この小説は「貧困と無知が生み出すこうした社会の悲惨を告発した社会小説である」が、「理想主義的な人類愛の物語」の側面のみが強調されているという指摘は、映画やミュージカルに感動ばかりを求めるぼくたちには、痛くもありがたいものです。