565「社会学者の宗教への関心」
「退屈させずに世界を説明する方法――バーガー社会学的自伝」(ピーター・バーガー著、新曜社、2015年)
バーガーは「笑う社会学」を目指すと言います。どういうことでしょうか。「滑稽は人間の現実を鮮やかに照らし出すことができるし、実際にある種の社会学たりえる」(p.332)。一歩距離をおくと、何かに怒ったり嘆いたりする自分の姿が滑稽に見えることがあります。そこには怒るべきでも嘆くべきでもない現実があるかもしれないのです。
ところで、副題に「社会学的自伝」とありますが、バーガーは神学者でもあり、「救いの笑い――人間経験における滑稽の次元」(邦題は「癒しとしての笑い」)という著作もあり、この領域でも「笑う神学」を目指していたのかも知れません。
しかし、本書では、社会学者としての彼の道のりが描かれています。ただし、社会学の対象としての宗教にはたびたび言及されています。
「社会的機能を暴露するという点で、社会学は喜劇に似ている。同じ理由でそれは人間を解放する力を潜在的に持っている・・・社会学は・・・社会的虚構の宗教的正当化を暴露せざるをえない・・・キリスト教信仰はこれと同様に暴露的である・・・」(p.95)。
新約聖書の福音書によれば、イエスは当時の宗教権力者=社会の支配層の偽善を暴露していますが、ここでバーガーはそのこと、あるいは、それに影響されたキリスト教の側面を言っているのかもしれません。
ところで、近代、現代は、宗教的なものが衰退し世俗的なものが支配しているという意味で「世俗化」などと言われますが、バーガーは「世俗化の理論のかわりに必要なのは多元化の理論・・・近代は無神論の時代だと思われたのだが、驚いたことに実は多神論の時代だった」(p.179)と述べています。
また、「近代化は西洋化と同義語ではない・・・東アジアでは伝統的文化の諸要素が成長と近代化というすさまじい変化に適応した・・・」(p.190)とし、バーガーは「伝統的文化」の中に宗教的なものを含めていると思われます。
またプロテスタントの一派である「ペンテコステ派は近代化する経済に第一歩を踏み入れようとしている人々にとって機能的な道徳性をあたえる・・・規則正しいライフスタイル、満足の遅延、節制・・・まさにそれはマックス・ウェーバーがヨーロッパや北米における十七・十八世紀のプロテスタンティズムに見つけたと主張した『プロテスタンティズムの倫理』の中心成分にほかならない」(p.291)と述べています。
このように、本著はバーガーの社会学的自伝でありながら、宗教的な、強引に言えば、神学的な横顔が見え隠れしています。
ところが、彼は「道徳よりも利己心に訴える方がいいという洞察」(p286)も披露しています。それは、アパルトヘイト廃止のプロセスについてですが、南アフリカの「企業としては全体として・・・現状のままでは経済が破壊されると確信するようになってはじめて、反アパルトヘイト陣営へと方向転換した」(p.287)とバーガーは観察しています。
アパルトヘイトの正当化にじつはキリスト教も加担していたのですが、バーガーはこれを崩すには、そして、実際に崩したのは、宗教よりも利己心であると言っているようにも思えます。もっとも、これは企業の反アパルトヘイト転換についてであり、黒人たちの多くは、私利私欲のためではなく、人間の存在と尊厳ゆえに動いたのであり、それは道徳というよりも魂と言うべきものであり、その魂を宗教性、霊性と呼んでも的外れではないでしょう。