560 「未来はマシになるという希望をくれる社会学」 ・・・  「21世紀を生きるための 社会学の教科書」(ケン・プラマー著、赤川学監訳、ちくま学芸文庫、2021年)

 個人の人生に起こることには社会的な背景がある。個人的なことに思えても、それは、じつは、社会的なことなのだ。

 

「失業のライフストーリーによって明らかになるのは、個人の失敗ではなく、より広い経済の仕組みである。同性愛は個人の病理ではなく、法律とジェンダーの社会的意味によって深く形成されている。」(p.258)。

 

 その人が努力をしてこなかったり能力がなかったりしたから仕事につけない、と言うがそうではない。まず、こういう言い方自体が、社会が築き上げたものだ。客観的な真理のようなふりをしているが、社会が作り上げた「お話し」だ。

 失業は、雇用者がその人を解雇するから生じる。この意味でも、失業は個人的なことではなく、社会的なことだ。解雇の理由も、不況であるとか、この人が努力しないとか能力がないという「お話し」に便乗しているか、いずれにしても社会的なものである。

 「人間は女と男という性に二分される。恋愛、性愛はこの二者間で行われる。女と女、男と男が恋愛や性愛の関係になるのは自然に反する」。これも、社会が作り上げた「お話し」だ。この「お話し」によれば、「同性愛」は個人の病理とされてしまう。

 

法律も「結婚は女と男のあいだで」と定義する。そもそも「同性愛」という言葉も「結婚は異性愛による」と決めた法律や社会の「お話し」が生み出したものであるかもしれない。同性愛も異性愛も区別せず、ただ「愛」があると考えるのなら、「同性愛は個人の病理」などとされることはないのではないか。むしろ「同性愛は病理」という「お話し」こそが社会の病理ではないか。

 

 社会学は、わたしたちがあたりまえ、自然と思っていることが、じつは、社会が作り出した「お話し」であることを明らかにする。そして、この「お話し」が人を苦しめているなら、その「お話し」によらない社会を目指そうとする。

 「社会学者は当たり前の社会を疑い、問いを投げかけ、それを今ここの世界とは別のあり得た世界とつなげる」(p.385)。

 

 同性愛を病理する社会が当たり前なのではない。同性愛を病理ではない、あるいは、当然とする社会もあり得たのだ。そして、これからも、あり得るのだ。失業を個人の努力や能力の問題にせずに、経済や政治の失敗とする社会もあり得るだろう。

 簡単ではない。しかし、描き出さなければならない。

 

ユートピアには決してたどり着けないかもしれないが、そのビジョンは重要だ」(p.414)。

 

 ユートピアはどこにもないが、今よりましな社会、今よりましな「お話し」は、たしかにあるのだ。現代社会にも、かつてよりひどくなった部分だけでなく、ましになった部分もある。

 

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