117  「生まれ変わり、死者を思い続ける」

「生と死についてわたしが思うこと」(姜尚中、2013年、朝日文庫

 息子さんの死と、東日本大震災の死者について、著者がどのように語っているのか、知りたくて、手に取りました。

 雑誌「アエラ」に載っていたコラムを集めたものなので、あまり深い掘り下げは感じられませんでしたが、それでも、線を引いた個所を読み直してみますと、やはり味わい深い言葉がいくつかありました。

 大震災による荒廃は、戦争の荒廃の上に築かれた戦後的なものの成れの果てであり、この上に戦前的なるものが蘇るとしたら、という予感。3・11で崩壊した座標系がどんなものとして建て直されるのかという期待と、悲観。

 「国破れて山河あり」ではなく「山河破れて国あり、しかし国がヨタっている」という指摘。

 死者が死の間際、どういうふうであり、何を思い、どうしていたのか想像することの必要。これは、息子さんのことでもあるでしょう。

 聖書の復活が理解できなかったし、今もできないという告白。同時に、李恢成を通して「人生が途上にあるとすれば、今ないものが必ず立ち現われてくる」「途上にある人生の可能性について、若い人たちにも何かしら感じてほしい」という希望と祈り。

 息子の死についての報道に傷つけられ、喪にも服しているが、自身の「公人」的存在の自覚、ミリオンセラー「悩む力」を著わした責任ゆえに、「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである」という言葉を励みに、これまで以上に、書き、語ることの決断と確信。

 ハーレーにまたがって走り抜けたいという「悩みの大地」とは、東北と、もうひとつは、息子と同世代の若者たちの世界なのでしょうか。

 「生きている人間が、死者のことを思い続ける限り、決して無駄でも無意味でもない」とは、著者以外からもよく聞く言葉だが、今の著者を通せばたしかに厚みがあります。さらに、「ただ、生きている人間は、そのためには生まれ変わらなければいけない」という言葉には、復活が理解できないという著者が、復活と無縁ではないことがうかがわれます。

 「メディア・イベントとしての「3・11」は、私には忘却を早めるための記憶の再生のように思えてならない。忘却するために記憶する。この逆説的な出来事が、この2年、粛々と進行し、挙句の果てに原発事故という空前の悲惨を招いたシステムとその人脈が息を吹き返し、我こそ「改革者」とばかりに戦後そのものの幕引きを図ろうとしている」

 生まれ変わっていない人間が、いくら死者を祭り、事故を反省しても、それは、棄民と歴史の抹消以外のなにものでもない。

 ぼくたちは、死者と共に死に、あるいは、死者に殺され、生まれ変わり、死者を思い続け、死者とともに生きることを考えようではありませんか。死者は歴史でもあると考えます。

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