誤読ノート359 「宗教を猫でほどく」  「宗教を物語でほどく アンデルセンから遠藤周作へ」(島薗進著、NHK出版社新書、2016年)

 この本では、二十くらいの物語が取り上げられています。

 「100万回生きたねこ」「人魚姫」「なめとこ山の熊」「放蕩息子の帰還(新約聖書中のイエスの例話)」「想像ラジオ」。ぼくが読んだことのある本はこれだけです。

 「深い河」「きりこについて」。これらはこれから読んでみたいと思いました。

 宗教とは「『限りある人間のいのち』を見定めて、それを超える何かを見出そうとする人間の心」(p.312)の営みだとすれば、物語も、また、その心に促され、応え、それを養うという共通点がある。これが著者の観点ではないでしょうか。

 「そもそも宗教は、人びとに自己に立ち返り、『限りある人間のいのち』を超える尊いものに目を向けるように促す。では、限りある人間のいのちはどのように現われてくるのか。それは『死』『弱さ』『悪』『苦難』という言葉で指し示すこともできる」(p.27)。

「『死』『弱さ』『悪』『苦難』といった限界に向き合う(限界を超える、限界を受け止める)ことで、人は言わば『いのちの痛み』を深く経験する。そしてそれを通じて自分自身が相対化され、『いのちの恵み』と呼べるような『尊いもの』がほのかに現われてくる。これが『救済』を求める宗教(救済宗教)の構造だ」(同)。

 さすがに宗教学者である著者の言葉です。ぼくはキリスト教の牧師ですが、聖書やキリスト教の教義の教えの説明に埋没してしまって、それらの奥底にあったはずの深い経験を、このようなレベルで捉えることを忘れてしまいがちです。

 さて、そのような宗教の本質、というよりも、宗教というものの深奥にあるものが、いくつかの物語からも読み取られることを、島薗さんはこの本で具体的な例を挙げながら、示しているのです。

 たとえば、「100万回生きたねこ」については、「死ぬたびに何度も生き返ってきたねこが、尊い他者の死を通して、蘇ることのない最期の死を迎えるという結末は、宗教的な語彙をもちることなく、何かしらの宗教性を描き出していると言えるかもしれない」(p.19)とあります。

 「『限りある人間のいのち』を超える尊いもの」(p.27)には、神や仏だけでなく、自分以外の人間も含まれるのかもしれません。神も他者も自分以外の存在という点では共通しています。あるいは、他者は自分が神に至る道、あるいは、神が自分に至る道なのかも知れません。その意味では、死んでしまった白いねこは、主人公のねこを超越者にいたらしめた、少なくとも、自分自身を超越させた=自分の狭い枠の外に導き出した存在なのでしょう。

 「放蕩息子の帰還」の項では、レンブラントの絵を手掛かりに、身を持ち崩した息子の弱さだけでなく、息子を迎える父の弱さにも注目し、弱さと弱さの出会いの中で開かれる宗教性を論じている点が新鮮でした。

 「きりこについて」もある意味、ねこの物語です。「100万回・・・」と言い、島薗先生、さては、ねこ好きですか。

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