ミロコマチコさんの絵とのコラボ。
子どもの読者を考えて書かれているが、いや、それゆえに、おとなをも「考える人」にしてしまう。
電車の中、教室、登下校道は、哲学に満ちている。
重松清の筆にかかれば、哲学は、哲学用語や概念の羅列や展開ではなく、
席を譲るべきかどうか迷う時、
妹や級友をめぐって気持ちが揺れ動く時、
歴史のことは良く知っていても、好きな子の気持ちや死にゆくおじいちゃんのことは何も知らないことに気づき、けれどもいじめられている同級生の悲しさと悔しさ、そして、自分のすべきことを知っていると思いいたる時、
仲良しグループで行動する時、しなければならない空気の時、
お母さんがとってくれた自分の小さなころのビデオを見て、ふと、ある大きな問題に気づく時、
「面白い奴」を演じると決めている時
に浮かぶ、さまざまな思いの織りなしとなる。
それは、子どものころのことだけではなく、作家のSが自死した友人のことで「自由」について何年も考えぬいたことにもあてはまる。
「哲学というのは、生きることを好きになるためのヒント」(p.146)だと思う、とSは言う。
「生きることを好きになる」とは、けっして、楽に生きるようになることではないだろう。
「こども哲学」シリーズの付録であった七編に加えて、雑誌に掲載された「あの町で」が収められている。
被災地。
丘に舞う桜、
中学野球のグラウンド、
鮭の上る川、
瓦礫を運ぶダンプの窓から見える雁。
死者は生き残った人々に、思いと考えと言葉をもたらす。