6 信じること (2)聖書を読む心地よさ

 「信じる」とはどういうことでしょうか。この項では「神の存在を信じる」「神を信頼する」とは別の意味を考えてみたいと思います。さきほど「価値観を共有する」と述べました。聖書にはいくつかの価値観があります。その中には、イスラエルに敵対するアマレク人を乳飲み子にいたるまで滅ぼし尽くせという神の命令や、女性蔑視など、受け入れがたいものもあります。しかし、非常に共感できるものもあります。

あるいは、聖書には読んで非常に心地よい言葉があると言ってもいいでしょう。ここで、心地よいとは、感動させられる、自分の意見と一致する、自分にないものを教えられてその通りだと思う、自分のあり方を説得的に反省させられる、というような意味です。

むろん、そのような書物は文学や思想、ノンフィクションなど、聖書以外にもたくさんあるでしょう。けれども、「神を語る言葉」として、わたしは聖書という書物を心地よいと感じるのです。神について共感できるいくつかの表現が聖書にはあるのです。神を描くなら、たしかにこのような神として描くべきだ、と思わせる表現があるのです。神についての考え方であるなら、このようなものであって欲しい、という箇所が聖書にはあるのです。神に関わる心地よい表現を聖書に見出すことができる、これが、わたしにとって聖書を信じることなのです。

では、聖書のどのような表現がわたしに心地よいのでしょうか。その前に、心地よくない箇所も挙げておきましょう。

「15:2 万軍の主はこう言われる。イスラエルがエジプトから上って来る道でアマレクが仕掛けて妨害した行為を、わたしは罰することにした。15:3 行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」(サムエル記上)

聖書のこの箇所は紀元前千年代を舞台にしていますが、その千年後にイエスは「敵を愛せ」と言います。時代背景や言葉のコンテキストを考慮しなければなりませんが、それでも、いわば、相反する二つの思想が聖書には現れているのです。もっとも、互いに矛盾する情報や考え方が並置されているのが聖書の良さと考えることもできます。そして、それは聖書を読む心地よさの一つでもあります。それはともかく、「敵を憎め」にとどまらず「子どもも乳飲み子も・・・打ち殺せ」という思想も表現も心地よいものではありません。不快なものであり、批判されるべきものでしょう。

「14:34 婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。14:35 何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。」(コリントの信徒への手紙 一)

 これはパウロがコリントというギリシアの町の教会の人々にあてた手紙の一部です。ここには時代とともにパウロが負っていた女性蔑視の一表現が見られます。心地よいものではありません。たしかに、女性は全く口を開いてはならないという教会があるとは聞いたことがありません。けれども、現在のキリスト教会の中にも、男性信徒の発言の方が強い教会が多くあります。女性牧師を認めていないキリスト教の教派や教団もあります。認めている教派や教団でも、牧師の数は圧倒的に男性優位です。しかし、それは上のパウロの言葉に忠実であって望ましいというものではなく、パウロのこの言葉とともに心地悪いものであり、克服されなければならないと思います。

他にもいくつも例がありますが、このように聖書のすべての箇所が心地よいものであるわけではありません。

それにもかかわらず、聖書には読んで心地が良いもの、心地よく神を描いてくれている箇所があります。

「3:7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」」(出エジプト記)

神は苦しむ者、虐げられる者を顧みる、これは読んで非常に心地の良いことです。それが、わたしたちと同じような視覚、聴覚、認識組織を持つ神がある特定の場所で特定の時間にそれらを用いて行った歴史的な事実であっても、あるいは、そうではなくて、「神は人間の痛みを知る」という神学思想の一表現であっても、非常に心地の良い表現です。

「見る」「聞く」「知る」という三方向からの描写にも言葉の美しさを感じます。これが事実であろうと、神学思想の一表現であろうと、非常に慰められます。わたしは、これを事実でも思想でもなく、「言葉」と呼びたいと思います。「言葉」は歴史的事実でなくても真実としての力を持っています。「言葉」はまた単なる思想でもありません。「言葉」には出来事としてわたしたちに迫り来るものがあります。「言葉」には事実や思想を超えた心地よさがあるのです。

次回は、心地よい聖書の箇所をさらに挙げ、事実とも思想ともまた違う「言葉」についてももう少し考えてみたいと思います。