7 信じること (3)心地よい聖書の「言葉」

わたしにとって、神やイエスや聖書の言葉を信じることは、聖書を読んで心地よい、ということと深く結びついています。聖書の言葉の心地よさは、歴史的事実の持つ説得力でもなく、たんに思想の魅力でもなく、読んでいるわたしの中に今満ちる、「言葉」の心地よさなのです。

聖書には歴史的事実も含まれます。また、歴史的事実を核とした物語や、歴史的事実のの脚色、場合によっては歪曲さえも含まれます。まったくのフィクションも含まれています。聖書の中のある話が歴史的事実であるからと言って、聖書は全面的に信じるに値する、ということにはなりませんし、反対に、聖書の中にいくつかのフィクションが含まれるからといって、聖書はまったく信じられない、などということにもなりません。問題は、事実であろうとフィクションであろうと、その「言葉」の心地よさなのです。

また、聖書の中には魅力的な宗教理論、宗教思想も含まれています。たとえば、イエスは「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)と言いました。パウロは「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)と記しました。

これらの言葉には次のような宗教理論が含まれています。「神は人間より圧倒的に高いところにいる。圧倒的に完全である。反対に、人間は徹底的に自己中心で、神にも他者にも不誠実である。人間がたとえ神に対して信仰をもっても、あるいは、他者に何ほどかの利益をもたらしても、それは神との圧倒的な距離を埋め合わせるには何の意味ももたない、ごくごくわずかなものに過ぎない。また、たとえそれが救いのためにとか人のためにとかいう形をとっても、そこには自分が救われようとか他人からよく思われようとか自分の美学に沿った生き方をしたいとかいった私欲がある。つまり、人間は自分の行動や態度や精神のあり方によっては救われることはありえない。質、量、どちらも救いには不充分である。人間が救われるには、つまり、神と人間との圧倒的な距離を埋めるには、神の方が一方的に人間のところに降りてくるしかない」。これは救済理論です。そして、救済理論としては、「神の方が一方的に人間のところに降りてくる」、これに勝るものは論理的にありえません。

この救済理論には心地よさがあります。しかし、イエスの言葉やパウロの言葉の美しさは、それだけではなく、「言葉」の心地よさに負うところも大きいでしょう。「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」、このリズムはじつに気持ちのよいものです。「ああ、わたしのような悪人も、正しくない者も・・・」という心地よさがあります。「キリストがわたしたちのために死んでくださった」、「死んでくれた」という表現によって、「すまなさ」をつっかえ棒とした心地よさがもたらされます。たとえが悪いですが、葬儀の時の、悲しいながらも、涙が出て、どこか気持ちよい、あの感覚に似たものかもしれません。「うれし泣き」にも似ています。聖書の言葉にはこのような「すまない」と「気持ち良い」が一体となった心地よさもあります。

つぎに旧約聖書イザヤ書から「苦難の僕の歌」と呼ばれる箇所の一部をあげます。ここにも魅力的な宗教思想があります。けれども、それだけでなく、「言葉」の心地よさを含んでいます。

53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。
53:7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。
53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。

聖書では、人間は羊の群れ、神やイエスはそれを導く羊飼いにたとえられます。この歌の書き手は、自分たちは神の導きに従わなかったが、神はその罪を「わたしたち」全員にではなく「彼」一人に負わせたと述べます。「彼」は苦しめられ、打ちのめされます。「口を開けない」ほどに打ちのめされたのでしょうか。あるいは、耐えて口を開かなかったのでしょうか。ついに、命を奪われます。書き手は、「彼」が死にいたるまで苦しめられたのは、「わたしたちの罪をすべて」負わせられたからだ、と言うのです。彼が「わたしたちの罪」を負ってくれた、と言うのです。

ここには、わたしたち人間の罪を一人の人間が負う、という宗教思想があります。けれども、それはたんにいけにえとして罪をひっかぶせたというのではなく、「彼」があえてその身に引き受けたというものです。わたしたち人間には負い切れない罪を、あえて引き受けてくれる存在がいる、ということです。

あるいはまた、人間が不当な苦しみを受ける時、それは無意味なことではなく、誰かの代わりに罪を背負っている、という意味があるということにもなるでしょう。それは、不当な苦しみを受けている人々に対するすまなさやうしろめたさからわたしたちをいくぶんでも救ってくれるかもしれません。あるいは、わたしたち自身が不当に痛めつけられるとき、それを耐え抜くための杖となってくれるかも知れません。

「苦役を課せられる」「かがみ込む」「口を開かなかった」「屠り場に引かれる小羊」「毛を切る者の前に物を言わない羊」、少しずつ言い換えながら重ねられるこれらの言葉には、カタルシスの心地よさがあります。「捕えられて、裁きを受けて、彼は命を取られた」、ここには言葉の畳み掛けと、わたしたちが経験してきた理不尽な仕打ちとの重なりがあります。

今引用したのはイザヤ書53章6-7節と8節の最初の数語ですが、その数節前でつぎのように歌われています。

53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
53:5 (前半) 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。

 ここでは、「わたしたちの罪」ではなく「わたしたちの病」「わたしたちの痛み」「わたしたちの背き」「わたしたちの咎」という語が用いられていますが、「彼」がそれを負ったという点は、先の引用と共通しています。また「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている」「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった」という句に見られる、少しずつ言い換えて繰り返す言葉のリズムも同じです。

 そして、53:5前半の言葉は、「彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」という53:5後半の言葉に引き継がれ、その後に、最初の引用(53:6-7、8の最初の数語)が続きます。つまり、上の引用箇所と先の引用箇所は同じ内容を言い換えて繰り返しているのですが、二つの引用の間に「彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」という最大のメッセージが挟まれているのです。もっとも伝えたいことの直前と直後を同じ内容の言い換えをおく、ここにも言葉の美しさ、読む心地よさがあります。

 また、宗教思想の点に引き返しますと、苦しみがなくなることにではなく、苦しみの奥底にこそ、「平和」「いやし」つまり神の救いがあるという思想にも心地よさがあります。苦しみや痛みがきれいさっぱりとなくなってくれないという現実にあっては、華々しい奇蹟が起こり苦しみが消滅した時にではなく、奇蹟は起こらず「軽蔑」「見捨てられ」「痛み」「病」「苦役」「かがみ込み」「屠り場」「物を言わない小羊」といった痛みのただ中にじつは神のいやしと平和があるという思想は、悲しく、同じに、心地よいものと感じられます。

このように見てきますと、聖書は心地よい宗教思想を、心地よい「言葉」で表現している、と言ってもよいでしょう。ただ「救われている」といわれてもなかなかぴんと来ませんが、「苦しみ」という実体験を媒介にすると伝わってくるものもあるのではないでしょうか。