5 信じること (1)日常的用法と宗教的用法 

 ここまで、「信じる者は救われる」という言葉が「法則」「命題的真理」としては成立しにくいことを述べてきました。

 では、そもそも「信じる」とはどのようなことだと一般的には考えられているでしょうか。長谷川宏さんが「高校生のための哲学入門」(ちくま書房、p.172-175)において展開しておられることは、とりあえず一般的な見解ということができるでしょう。

 長谷川さんはまず「信じる」の日常的用法に触れます。

 「「信じる」ということばは、日常的には「あの人の言っていることは正しいと信じる」とか「この薬は効き目があると信じる」といったふうに使われる。正しくない可能性、効き目がない可能性を認めつつ、その反対の可能性へと心を傾けるのが「信じる」だ。疑わしいな、不確かだな、という思いを抱きつつ、とりあえずこうだと決めるのが「信じる」だ。が、その一方、疑わしい、不確かだ、という思いが心に残るのは安らかな状態ではないから、信を固めるために疑わしい事態をもっとよく観察し、知り、理解しようと努める。観察と知と理解を深めることによって信のあやふやさを克服しようとする。信じる内容が一〇〇%確実になることはめったにないが、それを承知の上で確実性の度合いが大きくなるように努める。それが日常生活での「信じる」という行為をめぐる心の動きだ。」

 長谷川さんは日常的には「観察と知と理解を深めることによって信のあやふやさを克服しようとする」と言います。「観察と知と理解を深める」とはどういうことでしょうか。薬の効き目についてであれば、臨床例のデータを分析することは日常の範囲では難しいでしょうが、インターネットで評判や副作用などについて調べることなどができるでしょう。「あの人の言っていること」についてであれば、これまでのその人の発言リストの信頼性を検討したり、あるいは、そのことがらについての別の見解と比較したりすることができるでしょう。つまり、確実性を高めるような情報を求めつつ信じるのが日常的な「信じる」であるということでしょう。

 これに対して、宗教的な「信じる」については、「信のあやふやさを観察と知と理解の深化によって補強するのではなく、信を強めることによって信のあやうさを突破しようとするのが宗教的信仰の本質だ」と長谷川さんは述べます。

 要するに、日常的には外的証拠や論理性の確認によってわたしたちは「信じる」が、宗教の場合は、外証や論理性の援護を求めず、ひたすら「信じる」というように、長谷川さんは考えているのでありましょう。

 けれども、宗教の場合も、じつは、外的証拠や論理性でその信を補強しようとする場合が少なくないように思います。たとえば、病気が治る奇蹟が主張される場合、その目撃者や経験者、(つまり証人=人的証拠)が複数挙げられる傾向にあります。ある奇蹟への信は、「わたしも見た」「わたしも治った」という援護によって高められるのです。

 また、多くの宗教は自分が自然の法則や科学を超えていることを主張しながらも、世界の仕組みや救済について、たとえ独自なものであっても、何らかの因果関係やメカニズムによって説明しようとします。あるいは、一般社会での合理性にも即しているという主張によって、その信の確実性を主張する場合もあります。

 たとえば、わたしは「人間の信仰は不完全」(A)だから、人間が救われることがあるとすれば「救済者側の一方的愛によるしかない」(B)という宗教的考えを持っています。つまり、Aの宗教的表現は「人間の考えは変わりやすい」という宗教外の一般的経験にも即しています。Bの宗教的表現は「百円しか持っていない人間が一兆円の負債を無くすには債権者の温情によるしかない」という一般的論理に則しています。そして、AとBをむすぶ際に「だから」という接続詞を用いるのも、一般的な論理形式を採用しているのです。

 わたしは「すべての人間は神の無償の愛によって救われている」という宗教的信念を持っていますが、これはまず、「この人には生きる権利はない」と誰かについて言えないように、「この人は救われない、というようなことを誰かについて考えることはできない」という宗教外の信念によって促されたものでもあります。そして、「救われている」という表現は、「救われる」という未来形の不確かを排除するものであり、同時に、すべての人間に共通していることがらに即そうとするものなのです。どういう意味で「すべての人間が救われている」のか、については別の項目で展開する予定です。

 このように考えますと、宗教的な意味での「信じる」について、長谷川さんの言うように「観察と知と理解の深化によって補強するのではなく、信を強めることによって信のあやふやさを突破しようとする」というだけではないように思います。宗教的な信も「観察と知と理解の深化による補強」をする場合があるのです。

 長谷川さんは、つづけて、親鸞は「観察や知や理解を振り捨てて、あやふやなものをあやふやなままに断固として信じるのが宗教的な信だ」と言うと述べています。けれども、わたしは「あやふやなものをあやふやなままに」までは賛成ですが「断固として信じる」にはためらいを感じます。「あやふやなものをあやふやなままにして」断固として「信じない」勇気もまた宗教的な信の一側面ではないかと思うのです。

「あやふやなまま」であっても「断固として信じて」しまえば、それは信念です。というよりも、融通の利かない思いこみです。いずれにしろ、あやふやではありません。しかし、宗教には、つねに打ち破れ、再生される、つまり、死と再生という面があります。古い自分が打ち破れてあたらしくなる、また、その自分が打ち破れてあたらしくなる、という面があります。「あやふやなものをあやふやなままにして、断固とした信念としてしまわずに、相対的なものにとどめておく」ことで、さらなる打ち破れや成長を経験する、宗教にはこのような側面もあるのです。

後に述べることになると思いますが、決めないでおく勇気を聖書のある部分は伝えているように思うのです。「決めない」で「信じる」道があるのではないでしょうか。長谷川さんは、日常的な「信じる」について「こうだと決めるのが「信じる」だ」と言い、「あやふやさを克服しようとする」とも言っています。宗教的な場合でも「信のあやうさを突破する」と言っています。日常的であれ宗教的であれ、「信じる」とは「決める」ものだと言うのです。そして、決める根拠を、日常の場合は観察と知と理解に、宗教の場合は「信を強める」ことにおくというのが長谷川さんの考えだと言えるでしょう。けれども、はたしてそうとばかり言い切れるでしょうか。

長谷川さんは親鸞につづいて、「不合理なるがゆえにわれは信ず」というキリスト教の格言を引用し、「不合理なるがゆえに信じない、のではなく、「不合理なるがゆえにわれは信じる」というのは、宗教的信仰の異次元性をよくいい当てているのだ」と述べています。

たしかに、そのようなキリスト教の信じ方は珍しくはないでしょう。あるいは、「不合理だけれどもわれは信ず」という人もいるでしょう。しかし、先に述べたように、キリスト教信仰においても、独自の世界観の中にも論理体系を作ったり、一般的な合理性に照らしても適っていると主張したりする場合もめずらしくありません。また、わたしの知っているキリスト教徒の信仰の中にも合理的な考え方を維持している人も少なくありません。現代キリスト者の一部に見られる合理性についても別の項で述べる予定です。

さて、順接であっても逆接であっても、「合理・不合理」とつなぐことなく、「信じる」を考える方法はないのでしょうか。わたしは、「存在を信じる」「信頼する」とは違う角度から「価値観を共有する」という意味での聖書の信じ方を提唱したいと思います。また、聖書の登場人物と執筆者の一人であるパウロにとっては「信じる」とはどういう意味なのかも考えてみたいと思います。