日本語では、「教会」と言い、「説教」と言います。「教える」という字が入ります。けれども、たとえば、churchやsermonの語源には「教える」という要素はないようです。(かと言って、欧米の教会が「教える」姿勢を持っていないかどうかはわかりませんが。)
「パウロの説教は、いつも、この『今日のわたし』を生かす神の恵みを語るものでした」(p.55)。「私どもが語る説教は、自分を捲き込んでくださった、『今日の』神の恵みを語る言葉でもあるのです」(p.56)。「私ども説教者は、まさに〈慰めの言葉〉として説教を語るのです」(p.61)。
まさにその通りだと思います。説教は聴き手に知識や生き方を「教える」ものではありません。神からの恵みと慰めを伝えるのです。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)
「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」(ローマ5:6)
「平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる」(イザヤ57:19)
これはぼくの教会の週報の表紙に印刷されている聖書の言葉です。ぼくはこの言葉だけで、もう十分に慰めを受けます。それは心理的なものではなく、その時の心理状態に依存しないもの、むしろ、魂、精神に触れるものです。神の救いとは、まさに、聖書の言葉(神の言葉)によるこの霊的な慰めのことでしょう。
けれども、聖書の言葉はそのまま染み入ってくるものばかりではありません。時には、背景の説明を必要とする場合があります。また、その神の言葉の慰めが聴き手に染み入るための導線や補助手段として例話や体験談、文学などを援用する場合もあります。この総体を説教と呼ぶのでしょう。
「主イエスが山上の説教の最初に告げられた、九つの幸せを告げられた言葉を言い変えたり、パラフレーズしたりする練習をしました」(p.34)。
説教とは、まさに、聖書の言葉、神の言葉の慰めを伝えるための、言い変えであり、パラフレーズでありましょう。
「テキストが物語の手法を取っている場合、それについて解釈し、解説するよりも、物語を再話することを学ぶのがよいでしょう」(p.56)。
例話が思い浮かばなかったり、言い変えやパラフレーズが難しい場合は、たしかに再話がよいと思います。そのテキストの物語を(脚色ではなく)肉付け、立体化しながら、再話をするのです。
「教会の牧師の務めは、説教と牧会であると言います。しかし、これは分けることができません。説教をしているときも牧会者です」(p.59)。「黙想の段階では・・・・ひとりの魂の深みに届き、慰め、励ましの言葉になるように祈りつつ問い、考えます」(p.82)。
説教は、教えでも、裁きでもなく、聴き手が神の言葉に慰めと希望を覚える舞台なのです。しかも、それは一般的なものではなく、聴き手の具体的な苦しみや悩みに向けられたものなのです。
最後に技術的というか、身体的なことですが、「聴き手に熱心に語りかけていることがよくわかるほうがいいのです。ひとつの方向だけを見ていたり、特定のひとを見つめたりではなく、全体を見ることが大切です。誰もが自分に語りかけてくれていると思えるように語るのです」(p.95)。
原稿を見ない、あるいは、原稿だけを見ない、落ち着きのない印象を与えないように、メモ、原稿と、聴き手全体へゆっくりと見渡すことがよいようです。