61 「いますぐこないからといって切り捨てることはできない」

「旅のパウロ その経験と運命」(佐藤研、岩波書店、2012年2月)

 パウロといえば、新約聖書に収められている手紙の中で表した神学や思想にスポットがあてられがちですが、佐藤さんは「彼の本領はその旅の行動性の方に」(p.2)あると言います。

 本著では、パウロの三度の旅の道筋を、著者自身が実際に旅した経験や研究資料に基づき、写真を交えながら、生き生きと再現しています。それを読みながら、わたしは、パウロの行動には空間移動だけでなく、(ユダヤ人であるパウロから見ての)異邦人とパウロとの出会いも含まれるのではないかと思いました。

 じっさい、パウロは人、あるいは人格との出会いに強く影響されているように思います。その最たるものは「杭殺柱」(十字架)につけられたイエスの姿を「見た」ことです。佐藤さんは「パウロの「回心」体験とは、杭殺柱上のイエスの示した、弱さの極みの凄まじい姿にパウロの存在がいわば呑まれてしまった。そのようにして彼の「自分自身」が死んでしまったという体験だと思います」(p.232)、「パウロにおいて「キリストの信」をより具象的に表せば、おそらくそれは杭殺柱上で命を落としているイエスのリアリティなのです。それがパウロを圧倒的に「義認」してしまった」(p.227)と言います。

 つまり、パウロはイエスの幻を見るのですが、それは十字架につけられた姿であり、人間の弱さの極みであり、その弱さの中にある何かが、パウロという、やはり弱さの底にあった人間を圧倒した、言い換えると、包み込んだ、パウロという弱い人間をそのまま肯定した、ということなのだと思います。

 それから、パウロは(異邦人ではない)イスラエル人同胞とのつながりも断ち切ることはできません。彼らは、律法遵守なしに異邦人も救われるというパウロの「極左」思想についていけませんが、佐藤さんによれば、パウロは「いますぐこないからといって切り捨てることはできない」「少なくとも、同じくイエスをキリストと見なしたエルサレム原始教会とは、いくらそれが保守化し逸脱しようと、決裂するわけにはいかないのです」(p.237)。

 わたしは、以前から、異邦人も神の救いの内にあるというパウロの神学の出発点のひとつには、異邦人との出会い(もともと、ローマ社会で育っていますし、旅もしています・・・)があるのでは、と妄想していました。たとえば、わたしはキリスト教徒ですが、イスラムの友人などがいるとすれば、キリスト教徒は救われるがイスラムは滅びるなどとは考えないのと同じように。

 そういう思いが逆に、エルサレム教会のイスラエル人同胞のような保守派をも切り捨てられないのだと思います。