855 「しなやかに、聖書を読み、人生を観る」 ・・・ 「おそれない――暗闇と孤独に届けることば」(佐原光児、2025年、ヘウレーカ)

この本を読んで、著者の佐原さんはたしかにイエスの弟子だな、と思いました。


「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタイ5:21-22)。

エスの言葉です。「しかし、わたしは言っておく」。イエスはこう言って、言葉の文字通りの理解や昔からの解釈に対して、あらたな読みを示しました。

佐原さんも、同じように、ひとつひとつの聖書の箇所に対して、教会でよく言われてきたことに留まらない、もうひとつの説き明かしを本書で示してくださいます。

「わたしたちが歩む人生という道のりには、気づけば泥水に両足を突っ込んでいるようなやるせない出来事も起こる。涙で視界がにじむこともあれば、ちょっとでも下を向けば涙がこぼれ落ちる、まさに表面張力ギリギリの我慢も経験するだろう」(p.3)

「表面張力ギリギリの我慢」というロックな表現にも魅せられますが、それだけではありません。

 

「けれども、そこで思い切って顔を上げてみよう。

きっと見える景色は一変する」(同)

この「けれども」に、イエスの「しかし、わたしは言っておく」の響きを感じるのです。

「本書では、これまでわたしが出会ってきた人たちの言葉や姿、エピソードを紹介し、聖書と関わらせながら、悲しみや苦しみの意味を探っている。おそれないで、視野を少し変えて物事を捉え直すことを意識してみたい」(p.4)

「まえがき」のこの言葉に本書のすばらしさが凝縮されています。すなわち、佐原さんが「出会ってきた人たちの言葉や姿、エピソード」、「聖書との関わり」、「悲しみや苦しみの意味」が、本書ではたいせつに語られています。

 

「聖書との関わり」においては、従来の定説を踏まえながら、しかし、「視野を少し変えて」再読し、それが、聖書の読みのみならず、わたしたち読者の生を捉え直すことへと招いてくれます。

そのような視野の変化は、書物だけでなく、「友たちとの出会い」や「連れ合いとの会話」によってもたらされたものだ、と佐原さんは本書を締めくくっています(p.208)

佐原さんの姿勢には、このように、聖書の読み方、生の見方の変化、現実の多様性の尊重が貫かれています。

たとえば、旧約聖書の創世記にこんな話があります。

アブラムは子孫が与えられず失望を口にしますが、神はアブラムを「外に連れ出して」、アブラムの子孫は星の数ほどになる、と言います(創世記15章1-6節)。

この箇所について、佐原さんは、「外に連れ出して」にとくに注意して、以下のようにコメントします。

「この物語は「子孫=神の祝福」という古代の考え方が反映されているが、もう少し別の意味をこの場面にみたい。わたしにとってこの場面は、より大きな視野と計りで世界を見るように訓練される物語である」(p.17) ・・・この続きは、ぜひ本書を手に取ってお読みください。佐原さんの深く説得的な理解に出会えます。

創世記にはこんな話もあります。カインは穀物を、弟のアベルは羊を神にささげますが、神は、カインのささげた穀物には目を留めませんでした。カインは怒りアベルを殺してしまいます。

神はなぜアベルのささげた羊だけに目を留めたのでしょうか。羊を飼うのは遊牧民穀物を育てるのは土地のある定住者、神は弱い立場にある遊牧民を顧みたという、やや専門的な説明や、神は穀物より肉の方が好きだったというユーモアなどが教会では語られますが、佐原さんはこう述べます。

「神がなぜアベルの献げ物を選んだか、その理由は聖書で語られていない。これまで多くの研究者が持論を展開してきたが、わたしはその理由が語られていないことも、この物語において重要なポイントであると思っている・・・理由が分からない時ほど嫉妬は激しく燃え上がるからだ」(p.20)

佐原さんは、理由がわからないのは読者だけでなくカインもそうであることに注目しているのです。まさに「視野の変化」「しかし、わたしは言っておく」です。

新約聖書では、イエスのことを知らないと言ったとき、イエスに見つめられ「激しく泣いた」ペトロのことが述べられています(ルカ22:61-62)。

これについて佐原さんはこう述べています。

「ペトロの涙は、そのイエスとの関係を失ったこと、そこにあった価値の喪失を思う涙でもある。そして、同時に、イエスの信頼に足る一番弟子という自分が砕け散ったことを意味する」(p.45)

しかし、佐原さんはここにとどまらず、続けます。

 

「けれども、この涙には別の意味も想像することができる」(p.46)・・・はたして、どういう意味でしょうか。ぜひ、本書を開き、頁をめくってみてください。

同じく新約聖書には、シロアムと呼ばれる池で目を洗ったら見えるようになった「生まれつき目の見えない人」の話が出てきます(ヨハネ9:1-7)。

佐原さんはこの物語を視力回復の奇跡物語としてだけではなく、「もう少し別の意味、人の生き方や視点に関わる大切なことが示されていると考えている」(p.159)と言います。それは、シロアムという言葉の意味から読み取られるものです。

 

キリスト教では「福音」という言葉が使われます。

これを教会では「罪からの贖い」「滅びからの救い」「来たる時の復活」(p.150)などと説明しますが、佐原さんは「しかし、わたしは」(同)と言うのです。

「福音とは厳しい現実の中にあってもわたしを突き動かす、神が与えたとしか思えない「生きたつながり」である」」(p.150)

さらには、こう述べています。

「このつながりは、喜びや感動によって創られるのではなく、むしろ悲しみや苦しみ、課題や苦境の中でこそ豊かに育まれていくものだ、とわたしは考えている」(同)

まったくその通りだと思います。「喜びや感動」もすばらしいのですが、そのかげには、いつも悲しみや苦しみがあります。99人が喜んでいても1人が悲しんでいます。この悲しみこそが「つながり」を育て、「福音」を招くのでありましょう。


じつは、在学期間は重なっていませんが、ぼくは佐原さんと同じ大学で学びました。また、二度にわたって、同じ学校の教員も務めています。本書で佐原さんが取り上げた(当時の)生徒さんはぼくの授業もとってくれたことがあり、記憶に残っています。

共通点のある場にいながら、そこでの佐原さんの出会いの誠実さ、真摯さを、本書を通してあらたに思いました。

「今ではあちこちに不具合を感じるようになり、友人と会えば健康の話題がひとつは入る」(p.40)

 

「無理しないでください」「健康に注意してください」と昔の人は言うが、「しかし、わたしは言う」と切り出すなら、なんと申し上げたらよいでしょうか。

佐原さん、すばらしい本をありがとうございます。また、ランチにお付き合い願います。

「今は、たとえ気づかなかったとしても、自分の働きが誰かに届いている可能性を信じることができる。もしかしたら、たったひとりかもしれないが、確かに届いているのだ」(p.178)

百万人からの称賛よりも、誰からも顧みられないように思えてしまう「悲しみや苦しみ、課題や苦境の中で」、たったひとりとの「つながり」「福音」(p.150)があることに、とても励まされました。

https://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E2%80%95%E2%80%95%E6%9A%97%E9%97%87%E3%81%A8%E5%AD%A4%E7%8B%AC%E3%81%AB%E5%B1%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0-%E4%BD%90%E5%8E%9F%E5%85%89%E5%85%90/dp/4909753214/ref=sr_1_1?crid=11TD9PYV0A7HX&dib=eyJ2IjoiMSJ9.QFVjGsne-2MDkY31IGDB2Dani9F6r8_A5cYf8iv2AvM7weUeqb1TsI8sJqvseDltlWQi-5TFNbb_Rr2NEowi_lMBHh3mmDFxvbJYZ3kMW9DU2VkTjhbkgnzLiv65Sv6JIt0cuKiGxPXzjJlZCGnwGErtpsc2_479WiK2G70FOjY.LJKkpF6dd8iQuDezp9UeJzakh6ZVqZZS_4Ki5F2Xqks&dib_tag=se&keywords=%E4%BD%90%E5%8E%9F%E5%85%89%E5%85%90&qid=1743034904&sprefix=%2Caps%2C192&sr=8-1