著者の小林昭博さんによれば・・・
「「クィア」(queer)とは「正常」の反対を意味し、特に同性愛者やトランスジェンダーといった「性的少数者」(sexual minorities)を日本語の「変態」と同じような意味で侮辱するさいに用いられる差別語であった。現在ではLGBT(LGBTIQAP+)が自称して肯定的に用い、自分がLGBT(LGBTIQAP+)であることに誇りを持つうえでのアイデンティティとして用いられるようになっている」(p.149-150)。
けれども、「クィア理論」という場合は「方向性」が変わってくる、と著者は言います。
「しかし、「クィア理論」(queer theory)として提唱された「クィア」とは、本来LGBT(LGBTIQAP+)や性的少数者の総称や包括的概念として現在使われている用法とは正反対の方向性を持つものであり……クィア理論とはアイデンティティの総称の如く便利に使うことのできるものではなく、一貫性や正常化を否定し続けていく理論であり、実践なのである」(p.150)。
「「家族」というものを論じるさいにも、クィア理論は家族という普遍化された概念の否定へと向かい、家族を差異化し、個別化していく」(同)。
「一貫性や正常化を否定し続けていく」「普遍化された概念の否定」ということであるならば、たとえば、わたしが保守的であれリベラルであれ「組織」で「当然」とされていることに反発を感じ、ときに、行動にうつしてきたことも、どこかクィアなのかもしれません。
わたしたちの行動や判断において、無自覚・無批判に「当然」とされていることを「当然」ではない、とすることが大事でしょう。
聖書を読むときは、わたしたちの「多く」は、「二元的な性別観、異性愛、それに基づいた家族」を当然としていますが、そうでない読みもありえるし、そもそも、執筆者がそのような「当然」の世界にいるとも限らないのです。
新約聖書の「フィレモンへの手紙」にはこうあります。
「わたしの愛する者、同労者フィレモン、ならびにわたしたちの姉妹アプフィアおよびわたしたちの共闘者アルキッポス、そしてあなたの家にある教会に」(1:1-2)(著者訳、p.106)。
キリスト教会では、フィレモンとアプフィアを夫婦、アルキッポスをその子ども、三人は家族、とする想定がなされてきましたが、著者はそれに疑問を呈します。
「このような想定を支える根拠とはいったい何なのか。そして、このような想定に何の疑問を抱くこともなく、その想定を信用し、受け入れてしまうのはいったいどうしてなのか。私見では、この背後には「異性愛主義」(heterosexism)の問題が潜んでいるものと考えられる……聖書の読み手(解釈者)の側が無自覚に抱え込んでいる「異性愛主義」の問題を浮かび上がらせたうえで、この三者の関係を捉え直してみたい」(p.105-106)。
著者は荒井献さんの論考を引用した上で、次のように述べます。
「荒井はフェミニスト聖書学者の批判を受け入れ、自らの聖書の読みが客観的なものではなく、あくまで「男の読み方」であったことを反省しており、「男性」である荒井のこのような自己省察は「女性」である上野やビッピンの批判と並んで、わたし自身の学問の出発点でもある」(p.118)。
「夫婦説や家族節には、――荒井の表現を借りれば――「無自覚に」男と女をカップリングする考えが潜んでおり、さらに「無自覚に」そこに子どもがいることをも当然とする発想が隠されていると考えられるのである」(同)。
「異性愛主義とは「同性愛嫌悪」(homophobia)と「異性愛規範」(heteronormativity)とが表裏一体をなす社会の構造を言い表している。そして、聖書の「読み手」(解釈者)もまたこの社会の構造を無自覚に前提としているために、異性愛主義が「先入観」として聖書解釈を規定する役割を果たしており、その実例のひとつがフィレモン、アプフィア、アルキッポスという三者の関係性をめぐる解釈において夫婦説や家族説として立ち現れているのである」(p.119)。
「三者に夫婦関係、家族関係および何らかの血縁関係を想定することには無理があり、三者を独立した存在として認識する独立説を採用することが至当だと言えるのである」(p.121)。
このように、著者は聖書読者の多くに沁み込んでいる「異性愛規範」などの先入観、さらには、ある聖書箇所執筆の背景にある「異性愛規範」ではない規範を明らかにしていきます。
たとえば、新約聖書のヨハネによる福音書には次のような個所があります。
イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」(21:15-17、新共同訳)
ここでは、イエスがペトロに三度愛を確認し、ペトロが三度「愛している」と答えていることが特徴的です。
この箇所を「異性愛規範」を前提にして読むか、それ以外のものを前提にするか、では、読みが大きく異なってきます。
著者は言います。
「古代のギリシャ世界は「ホモソーシャリティ」と「ホモエロティシズム」(homoeroticism)とが矛盾することなく共存するこのできた社会だった」(p.43)。
「矛盾することなく」とあるのは、一般には「ホモソーシャリティ」(homosociality)は「家父長制社会」の特徴を示しており……「ホモフォビア」(同性愛嫌悪)と「ミソジニー」(女性嫌悪)としてこの社会に立ち現れ」(p.42-43)ので、「ホモソーシャリティ」は「ホモエロティシズム」と矛盾しますが、「古代のギリシャ世界」では両者は相容れたのであり、ヨハネ福音書の執筆者や初期の読者はそれを前提としていた、ということでしょう。
「このふたりは単にホモエロティックな恋人関係にあるというのではなく、ホモソーシャルな関係、つまり「師弟愛」という「男同士の絆」をも併せ持っていると想定しうるのである。そして、このようなイエスとイエスが愛した弟子との関係性の描き方を鑑みると、ヨハネ共同体が古代ギリシャ・ローマ世界のホモエロティシズムとホモソーシャリティのエートスを共有していたとの推定は十分に蓋然性があると考えられるのである」(p.44)
「エートス」とありますが、この場合、社会の「規範」、読者の「前提」と考えても、大きくは間違っていないのではないでしょうか。
ヨハネ福音書には、復活したイエスがマリアに「わたしに触れてはならない」(20:17)という個所がありますが、これも、ヨハネ福音書が「ホモソーシャリティ」を前提としていることを示すと考えられると著者は述べています。
そして、この件の結論としては、以下のようにあります。
「現代の「異性愛規範」の世界に生きる者にとっては理解し難いことであるかもしれないが、ヨハネ共同体はホモエロティックでホモソーシャルなエートスを有していたのであり、それはギリシャ哲学者の師弟愛と同様のエートスだったのである。このようなエートスに基づいているゆえに、ペトロが教会の代表者に任じられる要件は「愛する」ことだったのである。ヨハネ二一・一五-一七はまさにそのような愛の確認をホモエロティックかつホモソーシャルに描写するテキストであるがゆえに、イエスがペトロに三度も繰り返し愛を確認する物語になったと考えられるのである」(p.48)。
マルコによる福音書にはこうあります。
イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。(3:20-21、新共同訳)
イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(3:31-35、新共同訳)
これについて、著者は以下のように述べています。
「そこで描かれているイエスは伝統的な家族観や家族制度とは一線を画し、自分の周りにいる者たちとの新たな人間関係に生きようとしていたと感じられる。このようなイエスの姿とその家族観は、現代のジェンダー論およびセクシュアリティ研究において、伝統的な家族観や家族制度を脱構築し、新たな人間相互の関係性を模索する議論と重なり合うような問題意識を持っている」(p.139)。
「イエスは「規範的家族」や「正しい家族」から零れ落ちてしまったクィアな存在であり、クィアな生き方を貫き、「家族」を「群衆」という無限に開かれた存在として提示する「イエスの家族観」は、まさに「クィアな家族観だと言いうるのである」(p.152)。
その通りだと思います。「異性愛者」であったり「シスジェンダー」(性自認(自分の性をどのように認識するか)と生まれ持った性別が一致している人のこと)であったりする人であっても、「異性愛こそが正しい」という言説や「為政者、国家による結婚制度」などに異を唱え、既存の定義に対する再定義を追求し、さらにその再定義をもつねに批判していく姿勢が「クィア」なのではないでしょうか。
「イエスの家族観」ばかりでなく、ルカ福音書の描くイエスの家族も「クィアな家族」であると、著者は言います。
「ルカが描くのはイエス、マリア、ヨセフ、そして神の四者(三人+一神)からなる「聖家族」である。イエスには二人の父がいる。ヨセフもマリアもイエスの血縁の親ではない。神もまた血縁ではなく、霊の父である。「聖家族」は西洋キリスト教世界が大切に抱えてきたような「理想の家族」や「規範的な家族」でもなく、様々な事情を抱える「クィアな家族」にほかならないのである」(p.189)。
「異性愛規範」による「家族」では、父はひとりになるかもしれませんが、じっさいには、同性愛カップル家族のみならず、様々なかたちで「二人の父」「二人の母」が存在する家族があることでしょう。もっとも、「父」「母」も、性別二元論に基づいた言い方であるでしょうから、考えなくてはならないでしょう。
ところで、わたしは「学会」による「論文」規範に従った言説だけが「学問」とされること、また、それに準ずるものだけが「学知」とされることに疑問を感じます。そのような規範に従わなくても「学」も「知」も可能ですし、げんにそのような「クィアな」「学」や「知」も存在すると思いますが、社会、とくに、出版メディアがそれに気づいていないか、無視しているように思います。
それでも、「学会論文」的でない「クィアな」言葉を出版メディアによらないクィアなメディアで発信することは大切でありましょう。